栃木県北部にある那須岳を源流とし、同県と茨城県を流れ太平洋に注ぐ関東平野屈指の清流。栃木県と茨城県の県境を中心とした中流部はアユの本場として知られ、夏から秋には天然アユを狙う友釣りで賑わうほか、多数の観光やなも設置されている。カヌーやカヤックで長い流程を楽しむロングトレイルも人気。魚道も介して海からの連絡が通じているため、春にはサクラマスやアユ、マルタウグイ、モクズガニなどが、秋にはシロザケが遡上する。なかでも海から遡上して森で産卵するサクラマスは、関東地方ではとても貴重な存在。今回、取材をさせてもらったのは栃木県と茨城県の県境で職漁活動とハンドクラフトワークを営む「Riverline(https://riverline-system.com/)」の綱川孝俊さん。
海と繋がる森の中の〝裏川〟
「カマツカのことを、ここらへんでは〝バカゾウ〟って言うんですよ」
そんなことを言いながら綱川さんは、実家の裏を流れる小さな川を案内してくれた。周囲に目立つのは竹林と一本の大きなケヤキ。対岸の岩肌にはイワタバコが繁茂している。トンネルのような森の中を流れる小さな川だ。子どもの頃ならば、秘密基地でも作りたくなりそうな、そんなワクワクする雰囲気をまとっている。
それにしてもバカゾウはひどい。でも愛着をもって付けられた名前のような気もする。ちなみに同じカマツカ亜科のニゴイは、この地方では「サイ」と呼ばれる(太いコイと比較して細いニゴイで「細」なのだろうか)。いずれも吻端が長いウマヅラだが、バカゾウとサイ。なんだか可笑しい。
ところでサケやアユはここまで遡上してくるのだろうか?
「アユは多いです。サケは最近は減ってしまいましたけど、何年か前までは木々が紅葉に染まる中を上ってきましたよ。海から来るもので言えばモクズガニやウグイ、それにマルタウグイもやってきます」
この川の雰囲気は裏山ならぬ〝裏川〟といった感じで、見るからにフナやカワムツやナマズが釣れそうな川ではあるが、紅葉に染まる木々のトンネルをくぐりサケが上ってくるなんて……。海と森との連絡は、行き来する生き物にとっての重要性はもちろんのこと、人間の情緒へのはたらきかけも大きい気がする。渡り鳥も遡上魚もモクズガニも、遠くの地へ旅する生き物は想像力を育んでくれる。
今年、年配の漁師さんから譲り受けたという和舟で対岸まで渡してくれた。動力は一本の竿竹。これで川底を突きながら進める。和舟は用途によって作りも異なるが、この舟は二人で投網を打っても安定するしっかりとした作りで、綱川さんは、アユの投網漁やウツボの設置に使っているという。来年はこの裏川を下り、本流へ漁に出るつもりだ。
那珂川の幸をいただく
漁獲したモクズガニやウナギは出荷前に家裏から出る湧水でドロを吐かせる。見せてもらったモクズガニの大きさは予想をはるかに上回り、まるで毛ガニのような迫力だ。数年を川の中で過ごし成長を遂げて成熟したカニたちはちょうど今頃から、河口や海岸での産卵に向けて那珂川を下り始める。知り合いの水中カメラマンに聞いた話では、カニは流れに乗りながらピョーンピョーンと飛ぶように驚くほど素早く川を下って行くという。対して春に小型のモクズガニが遡上する様子は綱川さんが動画に収めて「Riverline」でアップしている。一列に隊列を組んで急流の中を一歩一歩確かな足取りで上っていく様に生き物の力強い生命力を感じる。ウナギもアユもサケも、そしてカニも力強く生きているのだ。
お昼には那珂川流域の川の幸と畑の幸をいただいた。
綱川さんが落ちアユに串を打ち、炭を囲んで焼いてくれた。アユは泳いでいる姿はもちろん、死んで焼かれてもなお、その美しさを保つ魚だ。張りつめた皮に包まれたむちっとした白い身が口の中で香ばしさとともに解ける。モクズガニは真っ赤に蒸され、大皿に盛られた。甲羅の隙間に親指を差しこんでパカッと開く。湯気とともにカニの甘い香りが立ち上がる。割った両面に詰まっている味噌を箸でほじくって口へ運ぶ。深い。とにかく味が深い。そして大きなハサミを割って中の身を食べてみた。甘い。思わず「甘栗みたいに甘いですね!」なんてよくわからない感想が口をついた。今考れば甘栗とは違うと思うが、とにかく驚くほどに甘いカニだ。モクズガニは初めて食べたが、忘れられない味となった。
「大型のオスはハサミに肉が詰まってますから、それを味噌を集めれば、モクズガニ一匹から軍艦巻き一貫できそうですよね。今度ブログでアップしたいと思います!」と綱川さん。
綱川さんのブログでは、モクズガニの味噌をソースにしたパスタ、天然あゆこ(アユの卵)のパスタなど、那珂川の恵みを生かした新しい味づくりも提案している。そして有言実行、取材後のブログを見るときれいに盛り分けられた身肉と味噌の軍艦がアップされていた。
ほかにもアユ飯、アユの天ぷら、骨せんべい、モクズガニの味噌汁、そして実家の畑で採れた野菜の素揚げ。口に入れるもの入れるものが全部美味しい。昨日、川辺で綱川さんが「この辺りにあるもの全部が好きなんですよ」と話していた言葉が蘇る。
モクズガニに夢中になっていると、綱川さんのお父さんが通りかかった。「カニは時間がかかるよー」なんて笑って言いながら。畑、漁、養蜂、そしてアユ釣り。綱川さんは語らずも、多くをお父さんから学んでいるのだろう。
そしてハンドクラフトの工房へ
食事を済ませると、工房を覗かせてもらった。敷地内にある古い家屋の縁側を利用した工房は、綱川さんが昨日話していた通り代々繋いできた証とも言えるものだった。古いのにまとまりよく新鮮な風情がある。普段から立って仕事をするという綱川さんに、ハンドクラフトへのこだわりを聞きながら少しだけ作業を進めてもらった。
「今はまだ、欲しいと言ってくれる人に売るぐらいですが、ある程度自分が思っている物を作れるようになったら販売していきたいとも考えているんです。素材はほとんどが那珂川流域産。コンセプト、というか目標としては、その辺に流れてきた流木や枝などに混じっていても不自然じゃないもの。自然の風景に馴染みそうなものを作りたいと思ってます」。
工房の一画に下がっていた「VINE(ヴァイン)」という名のランディングネットが目を引いた。那珂川を遡上するサクラマスや大型ヤマメを意識したサイズ。川の流れのような木目とツルの口ばしのようなグリップ。差し色として効いている墨色は、素材の流木が元々持っていた模様と色だ。材のへこみや穴に合わせて鹿角などが埋め込まれている。
綱川さんの工房には、グリップとなる流木や材がたくさん転がっている。綱川さんが「なんかいいな」と思って拾い集めた物で、思い立てば手に取って、どのようなものにしたら材の良さを生かせるかを考えているという。
「これには目立たないこだわりがたくさん入ってまして、自分が好きなものをめいっぱい詰め込んでます。フレームはこの辺りの山で刈った孟宗竹。削って曲げて火を入れてうろこ状の模様を入れてます。こっちには鹿の角、ここにはケヤキの樹皮、ここは粘土を……」。
え?……と、二度見ならぬ二度聞きしたくなる素材を配したこだわりを次々と語る綱川さん。粘土はこの辺りの土で一度土器を焼き、それを砕いて削った粉を再利用しているという。グリップの横には直径2mmほどの円形の装飾が控え目に輝く。
「これは那珂川産の淡水二枚貝を使ってます」。
そしてネットの深い色合いは、ヨモギ染めだという。
「採ってきたヨモギを煮た汁に漬けて、それだけだと足りない気がしたので鉄分を含んだ粘土も入れて……。ヨモギで染めてから泥染めするみたいな工程を何回か繰り返して、このぐらいの濃さにしています」。
仕上げのオイルフィニッシュは、実家で養蜂するニホンミツバチの蜜ろうと茂木町の特産品であるエゴマ油を塗って磨き上げる。まさに那珂川水系原産というか、「好きなものばかり」と綱川さんが言う那珂川流域の素材を、好きなように思うように配し、全体のバランスとしては「自然に馴染む」ものとして成り立たせていく。話を聞いて、作品を見て、貴さを感じる。なによりこだわりを話す綱川さんの表情がいい。使ってみたい……と素直に感じながら、一方で自分のガサツな釣りを思い出す。でも、もしかすると、この道具を使うことで、自分の釣りの所作のほうが変わっていくこともあるんじゃないか。そんな楽しい妄想にふけった。
那珂川流域の好きなものを集めて
その後も次から次へと工房から出てくる石、骨、泥蜂の巣、貝殻、樹皮、そしてカゲロウの死骸……。見る人が見たら「がらくた」のような「宝物」を見て、それまでホームページを拝見していてぼんやりと思っていたことが、実感に変わる。
綱川さんの好きなものが私も好きだ。平たく言えば、わかる。
川を想う気持ちに通じるシンパシーなのだろうか。あるいはそれは私の単なる思い上がりで、綱川さんが多くの人に訴える魅力の一端を、たまたま今回取材させてもらうことで感じただけなのかもしれない。蜜ろうとエゴマ油が混ざったオイルを指ですくって香りを嗅がせてもらった。華やかで優しい香りに混じって、さっきまで夢中でむさぼっていたモクズガニの匂いがした。
「物を作ったりするのは好きなんですよ。単純に面白いなと思うし、あとはやっぱりきれいだなと思うし。たぶんずっとこんなことは、死ぬまでやるかもしれないですね」。
那珂川と向き合い、親しみ、釣りを楽しみ、漁を積み重ね、魚やカニや材など流域の様々な所から採ってきた好きなものを集めて創って形にする。あれこれと模索しながら、心を遊ばせながら。
夕刻、暗くなるまでの数十分、綱川さんと一緒に那珂川の瀬にアユの産卵を観にいった。産卵の瞬間は見ることができなかったが、暗くなった瀬には産卵を終えて命を閉じようとするアユがポツポツと白く浮かび上がっていた。その周囲には散らばった卵も。綱川さんは残照を拾い集めるように、命尽きる寸前のアユたちの美しさを一枚また一枚とフレームに収めた。