



朝日連峰から集めた清らかな水が新潟県村上市を潤し日本海に注ぐ清流。サケの産卵に適した玉砂利が豊富で、古くから多くのサケが遡上し、江戸時代には「種川」と呼ばれる世界初の自然ふ化増殖も行われたサケの聖地として知られる。流域の城下町・村上では古くからこの土地ならではの他にないサケ文化が発展し、塩引きや酒びたしにして食される「村上鮭」が有名。

はるか北方より帰還したエネルギーの塊
21gのスプーン、チヌークが切り立った対岸ギリギリの重い流れに吸い込まれる……と同時に強烈な衝撃が手元に伝わった。まさか……食った!? と思うと、ものすごい手応えとともに張りつめて放たれた矢のような背ビレが滑らかな川面を切りながら下流に向けて走り出すのが見える。魚と流れの重さが加算され、ロッドは根本から曲がり込みバットまでラインと一直線になっている。だが粘り強いドラグがなだめるように勢いを止め、魚を流心から外してくれた。怖いのは岸際のブッシュ、そしてコンクリートブロック。それからも数回、驚くほどのパワーで下流へと突っ込まれたが、とうとう息があがったのか水面に白い腹を横たわらせた。
ネットに収まったのは70cmほどあるオスのシロザケ(以下、サケ)。遥かベーリング海~アラスカ湾にまで4年ほどの旅をして帰還したばかりの、エネルギーをもつ砲弾。尻ビレの近くには海でしか生きることのできない寄生虫のシーライスがついていた。アゴが伸長していかつくなる二次性徴はまだ出ていない。「ブナ毛」と呼ばれる婚姻色も銀鱗をうっすらと染めているくらいだ。



川のサケは国の所有物
新潟県の下越、村上市を流れる三面川がサケ釣りをはじめたのは2017年。今年で2シーズン目を迎える。釣りのできる区域は河口から約3kmにある一括捕獲用のウライまで。そこにルアー、フライ、サンマの切り身などを用いた餌釣りの釣り人が集まる。釣りではあるが、正確には「鮭有効利用調査」と呼ばれる国の事業であり、釣り人は登録したその日、国に雇われた漁業者のひとりとしてサケの捕獲に従事するというわけだ。捕獲したサケは、釣法や場所などを申告したうえで、オスを一匹だけ持ち帰ることができる。



サケ釣りを運営する三面川鮭有効利用調査委員会(三面川漁業協同組合)の方々もまた、国から漁業権を得る対価として「増殖」という義務を負っている。具体的に言えば、ふ化放流事業だ。毎年、ある程度決められた数の卵をメスザケから絞り、そこにオスザケの精子をかけて人工受精させる。そして稚魚まで育ててから放流する、というものだ。
その義務を果たしつつ、漁獲したサケは地元の村上市を中心に鮮魚として流通させる。漁獲の方法は上記の釣りのほか、大型の掛けバリを用いた「テンカラ」と、3艘の小型船を用いて行う「居繰り網」という伝統漁。そして川幅いっぱいに設置されたウライ(簗状の柵を用いた罠)による一括捕獲で、川に遡上した大部分のサケは漁獲される。



現在の日本では、川のサケは「国の所有物」とされている。だから何人たりとも許可なく川のサケを獲ってはならない。それはたとえ数千年の間、サケに依存して生きてきたアイヌの人々であったとしても……。その是非はともかく、日本の川でサケを獲るには国の許可が必要となる。
小雨がそぼ降るさなか、釣り上げたオスザケのこめかみにオピネルのナイフを突き刺して締め、トロ箱に氷に敷き詰めて寝かせた。

青砥武平次と種川制度
三面川は「日本のサケ増殖事業誕生の地」とされている。平安時代にはすでに都への献上物とされていたほど、サケの川としての歴史は古い。だが、江戸時代の中ほどになると、サケの溯上数は激減してしまう。その頃すでに「海に降るサケの稚魚を獲ってはならない」というお触れがあったほどだから、降悔する稚魚の数が数年後の溯上数に影響を与えることは知られていた。だが、稚魚の漁獲を制限するだけではサケは減るばかりだった。
そんな苦境を打破したのが、村上藩士の青砥武平次だった。彼は、三面川の河口からすぐにサケの産卵に適した玉砂利が敷き詰められていることに着目した。そして河口から数キロの地点にウライを設け、それ以上は溯らせないようにしつつ、そこまでの区間を産卵場として整備したという。現代でこそ各地の渓流ではイワナやヤマメの人工産卵床作りが漁協や地元有志により行われているが、その先駆けともいえる増殖事業が200年も前に始められていたことになる。



「種川制度」と呼ばれたこの事業は大成功をおさめ、村上藩に大きな富をもたらした。さらに江戸から明治に大きく時代が切り替わってからも、種川は「自然の再生産力を手助けする」理想の増殖法として、北海道や東北各地のサケ川(サケを漁獲できる川)で取り入れられていく。それが現代の「ふ化放流事業」に置き換わったのは明治時代後期のことだ。ふ化率の高さを買われた欧米のテクノロジーは、日本が長く続けてきた種川にとって代わり、全国に広がっていく。

ウライを見て、サケの一生を思う
雨上がりの翌日。釣りはせずに川を見て回る。まず、釣り区間の最上流に設置されているウライを見に行く。数人の作業者が柵にかかったゴミを取り除き、魚が入り込む箱状の罠の状態を確認している。「ああ、三面川のサケは、これ以上は溯上することができないのか……」。そう思うと、少し複雑な気持ちになった。その間で釣りをさせてもらっていながら勝手な話なのだけれども。
だがこれは、三面川に限った話ではない。漁場として活用していないような一部の川を除けば、日本全国ほとんどのサケ川には、このような一括捕獲の罠が仕掛けられている。そしてサケたちは、野生の生き物として本来営んできた産卵場所での繁殖行動を妨げられている。絵本やテレビ特番などで観る「サケの一生」に感動する人間はまた、サケたちが本来もっている一生の循環を阻害してやまない存在なのだ。ふ化放流事業を全否定するわけではない。それこそ身勝手な話ではないか。でも、なんといおうか、「サケの一生」を完結させる、わずかな可能性ぐらいは残しておきたいと願うのもまた、身勝手な人間のセンチメンタリズムなのだろうか。
ウライの少し上流には分流としての種川が復元されていて、すぐ脇に建てられているイヨボヤ会館ではガラス窓越しに水中の様子を観察することができる。型の良いウグイが数匹、川底に固まっているのが見えた。



テンカラ漁は面白い
サケ釣りの受付所に戻ると「テンカラ漁の名人」と呼ばれる組合員がちょうど顔を出していて、漁の話を聞かせてくれる。
「テンカラは上手い・下手がすごくはっきり出る漁だ。ピンと張った糸に溯上する魚が触れたところで引っかけるにはコツがいるんだ」
単純に大きな掛けバリを投げ込んでは引きずって引っかけるだけだと思っていたが「アタリを取ってアワせる」となれば釣りと同じではないか。名人の言うことにはもうひとつの伝統漁法である居繰り網漁は今、村上市が観光用として行っているのみだという。そもそも効率的な漁ではないこともあり、最近では「仕事」としてやろうという組合員が減ってしまい、漁業権を放棄したのだという。現在、漁獲のほとんどはウライによる一括捕獲だ。ならばテンカラ漁は? これもまた効率の悪い漁とは言えまいか?
「獲る時は一日で100匹獲れたりもする。でもなんでやってるかといったら、やっぱり面白いからだな」
12月に入りシーズンになると、鮭有効利用調査の釣り人にまじってテンカラ漁をする組合員も川に並ぶという。


話ついでに、気になっていた魚留めのウライについて聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「一括捕獲の漁期は10月20日からだから、まだ柵立ち上げてなかっただべ。今はまだ、ちょっと雨が降って水かさ増えればサケはどんどん上っていく。ウライの上流でもテンカラはできっから、上の連中は雨降れ雨降れ~って言ってるよ(笑)」
なんとウライを越えて溯上するサケもいるということだ。「ホリ(産卵床)に乗ってる魚も見た」と聞いて、居ても立ってもいられず、その場を後にして上流に向かった。

支流にて、命の循環と出会う
数分後には、三面川から分かれる支流の川原に降り立っていた。途中、車からテンカラ漁をしている人を見たから、少しは溯っているはずだ。玉砂利を洗う清冽な流れ。瀬と淵が交互に連続する理想的な産卵河川。産卵行動を見てみたい。せめて産卵床を掘っているメスの姿だけでも……。
ニーブーツを履いていたが、瀬を渡るにはわずかに丈が足りず、足はもうグズグズだ。それでも行ける所までは行ってみたいと川を下っていると、遠目の中州に黒猫がうずくまっているような姿があった。近づくとそれは、産卵を終えてボロボロになったオスの「ホッチャレ」だった。待っていてくれたかのような出会いだった。

数日もすればこのサケは、タヌキやキツネ、カラスなどに食べられて姿を消してしまうだろう。だが、自らの意思で精子を放ち、産み落とされた卵に命を吹き込んで、次の世代にバトンを渡したはずだ。春、この支流を下る稚魚は放流された仲間たちと合わさり、ともに遥か北の海を目指すのだ。
たった一匹の死んだオスザケに出会えたことで、三面川のサケを一層身近に感じることができた。
写真・文:若林 輝