未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。
日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。
当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
地域で守るカラマツ原生林の修験霊場(千曲川上流域)
作業道の行き止まりに残る修験道の痕跡
日本列島を厚い雨雲が覆うなか、一カ所だけ穴を開けたかのように太陽がわずかに顔を出した。ここは長野県須坂市。北信地域にあり、山を越えれば群馬県だ。源流探検部は、仁礼会の皆さんの案内で、須坂市仁礼地区の源流域に向かった。
この仁礼会とは、この地域の人々が共有してきた山林を維持管理するために作られた財団法人。長野県が推し進める「森林(もり)の里親促進事業」を機にグローブライド株式会社とは縁ある森林(もり)である。
林道を走っていくと、すぐそばの斜面からカモシカが現れ、そして森の中へ入っていった。生き物の気配を感じながら、林道から森林作業道を山の奥へと入っていく。高原の爽やかな香りが満ちた森は、朝まで続いた雨に濡れた葉が濃く光り、生命力に満ち溢れている。
ほどよく明るい森の中では、下草も元気いっぱいだ。リズミカルに並ぶ針葉樹は、日本各地で見慣れたスギやヒノキの人工林と、葉のつき方が少し違う気がする。そう思っていたら、理事長の若林武雄さんがこう教えてくれた。「このあたりはカラマツの原生林なんです。この先にある避難小屋も、カラマツの木で作ったんですよ。このくらいの太さでも、樹齢70年くらいですね」
若林さんが指さしたカラマツは、直径40cmほど。じっくり時間をかけて大きくなった分、目が詰まっているんですね、と返すと、若林さんは嬉しそうにうなずいた。「カラマツのほかは、カンバやダケカンバ。もう少し標高が高くなると、シラカバやトガの木もあります」
標高がさらに上がると樹幹の向こうに霧が立ち込め、空気がひんやりと湿り気を帯びた。カラマツの間に、注連縄が巻かれたトチノキが現れた。御神木の存在が、霊場に入ったことを教えてくれた。
作業道の行き止まりに二つの建物が現れた。一つはカラマツで作った避難小屋。もう一つは大谷不動奥の院だ。このあたりは昔から修験道の修行の場だったという。若林さんはクマ除けベルをしっかりと鳴らすと山に分け入った。緑のトンネルといった風情がきちんと整えられていて歩きやすい。登山道のように見えるこの道は、かつて行者や参拝者が歩いて通った参道なのだ。
よく手入れされたカラマツの原生林に囲まれた大谷不動奥の院は地域の人々が大切に守っている。
大谷不動奥の院を囲む森は霊場でもある。いくつもある滝は修験道の修行の場となっていた。
歩いてすぐ、目の前に小さな滝が現れた。山の斜面を龍が滑り降りてくるような滝だ。普段なら、滝の前を歩いて行けるそうだが、雨で斜面が崩れていて、渡るのは無理そうだ。
「この先に一の滝と二の滝がありましてね。その間に、せり出したオーバーハングの岩があり、その下に二瀧社があったんですよ。二の滝で修行を行う行者は、この二瀧社で寝泊りしていました」
二瀧社には上から霧降の滝が注いでおり、「行者は二瀧社の窓から柄杓を伸ばして滝の水をすくって飲んでいた」という逸話も残る。社が老朽化したこと、参道の崩落の恐れがあることから、二瀧社はすでに解体されたという。
不動明王像を背負って山を登り下りする理由
話を聞きながら戻ってくると、仁礼会の副理事の中嶋正彦さんが大谷不動奥の院の中に入れてくれた。
出迎えてくれた御本尊は、もちろん不動明王だ。迫力ある立像の両脇に制咜迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子が控え、手前には小さな仏像が並ぶ。解体した二瀧社にあったものだ。
「毎年春になると、仁礼地区にある里堂からお不動様をここまで背負って上げてくるんです。そして、秋になるとまた背負って里堂に下ろします。この奥の院では5月のお山登り祭、8月の夏護摩祭、10月のお山降り祭を行って、里堂の別当である高顕寺のご住職に御祈祷してもらいます。御祈祷の後は斎宴で『すいとん』を食べるんですよ」
中嶋正彦さんがそう教えてくれた。
「ここは旧仁礼村・旧井上村・旧上八町村の三ヶ村で守っています。各地区から三人ずつ世話人が出て、お不動様を上げ下げしたり、そのための道を整備もしますね」
人間の背丈ほどもある立像を背負って山道を登るのは大変なもの。なぜこれほどまでに、ここを守っているのだろうか。
理事長の若林さんが言う。「ここは宇原川の源流域。源流域の山を守ることは、里を守る原点なのです。最源流はもっと奥の根子岳にある、標高約2,207mの根子岳は保水力が高く、これまで枯れたことがないほどなんですよ」
実は、このあたりは鉱山が多い。そこを流れる水は鉄や硫黄を含んでおり、飲用にも米作りにも向かない「そぶ水」と呼ばれている。
「そぶ水は飲むと酸っぱいんですよ。でも、他に選択肢がないから、その水を飲んできたわけです。そんな中、宇原川の水はきれいなので、昔から重宝されてきました。この辺りを代表する水系には松川水系、百々(どど)水系、鮎川水系の三つあるのですが、その中でもきれいなのが鮎川水系です。それは、宇原川が注ぎ込んでいるからなんです」
そぶ水を使うほかなかった地域では、田んぼではなく畑が中心だったという。しかし、宇原川のきれいな水を使える仁礼地区では、お米を作ることができた。今でも、そのお米は冷めてもおいしいお米だと評判だ。
左から仁礼会理事の目黒照久さん、理事長の若林武雄さん、副理事の中嶋正彦さん。
山とともに生きる人々に残る40年前の記憶
しかし、その豊富な水は時として脅威にもなる。
それが分かる場所に連れて行ってもらった。森林作業道を林道へと戻る中ほどに一カ所だけ山の斜面を土砂が覆っている。令和元年10月の台風19号の爪痕だ。大半の土砂が取り除かれて安全に通行できるようになっているが、迫(小さな谷)になっているところに集まった土砂が、山上から流れ落ちていった様子が手に取るようにわかる。
仁礼の森はきちんと間伐も行われ、土砂崩れを防ぐための土留工なども随所に施されているが、それでも40年周期でこうした大きな被害が出るのだと言う。「ここは、昭和56年8月23日の朝6時頃に起こった56災害でもやられたところなんです。あの時は3〜4日雨が降り続きましてね。23日の早朝、ドーンという音がして土砂崩れが起こったんです。いわゆる山抜けですね。上の方の集落で10人の方が亡くなりました」
理事の目黒照久さんは日付だけでなく時間まで淀みなく一気に口にした。40年経っても、その記憶は昨日のことのように鮮明に残っているようだ。
宇原川56災害では、降雨量の少ないこの地域に台風15号の影響により、2日連続で232mm、4時間で112mmもの大雨が降り、土砂崩れが引き起こされた。「この辺りは急峻ですから、何百トンもの石が流れて行きました。その勢いは凄まじく、杉の木が立ったまま流れて行ったほどです。40年経ってやっと木が生え揃い、山が戻ってきたんですよ」
きちんと整備しても取り除ききれない土砂崩れの痕跡に、自然の力の凄まじさが感じられる。
森の姿を変えるのも、再生させるのも、自然の力なのだ。そして、山に生きる人々が、その山を守る努力を続けている。例えば、土砂崩れが起こりそうな時は、木を伐って堤防や砂防ダムの上にのせておくそうだ。木をクッション代わりとなって、土砂の勢いで堤防が抜ける(崩れる)のを防ぐのだという。
「林道は市道なので壊れたら市が修繕するのですが、このあたりの森林作業道は私道なので、直せるところは仁礼会で直しています。仁礼会を作らなかったら、この森は守れなかったでしょうね」と、理事長の若林さんが日々の苦労を言葉にした。
なぜ、仁礼会を作ることが森を守ることに繋がるのか。
その理由は次号(vol.79)でじっくり語ってもらおう。
写真=田丸瑞穂
取材・文=吉田渓