未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。
日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。
当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
港町・佐世保を支える川の今昔物語(相浦川・佐世保川源流)
海の街で見つけた川の最初の一滴
車の中が明るくなって、長崎空港に降り立った時から降り続いていた雨が弱まったことに気づいた。窓の外を見ると、海と空をつなぐような虹がかかっている。虹に見とれているうちに、今度は巨大な艦艇が姿を現した。
海の街・佐世保を訪れると、ふるさと自然の会・会長の川内野善治さんが源流探検部を待っていてくれた。
川内野さんの案内で北東へと走るうちに、車窓の風景は海の街から里山に変わっていった。山頂付近が雲に覆われた国見山系を車で上っていく。「ここです。これが相浦(あいのうら)川の源流です」
何の変哲もない林道で川内野さんが言った。車を出ると、霧のような雨が降っているせいか、空気がひんやりと冷たい。
川内野さんが指さした斜面では、湧き出した水が小さな流れを作り、石の間を滑り降りていた。「普段は伏流水なのですが、珍しく地表を流れていますね。昨日からずっと雨が降っているせいでしょう。この水は、側溝に集められて流れていくんです」
側溝から始まる全長21kmの相浦川は、途中でため池などを経て佐世保市内の群島・九十九島のあたりで海に注ぐ。つまり、相浦川は佐世保市で始まり、佐世保市でゴールを迎えるのだ。
一つの街に源流と河口があるのは珍しいが、それだけ山と海が近いということ。
国見山系に湧き出す相浦川の源流。湧き水が集まって川となり、佐世保の海へ注ぐ。
相浦川源流の辺りは分水嶺となっており、佐賀県側の栗ノ木峠にも湧き水がある。
「この辺りは佐賀県との分水嶺なんです。それが分かるところがありますよ」
雨の中を進むと「栗ノ木峠」と書かれた看板が現れた。一つの矢印は長崎県、もう一つの矢印は佐賀県を指している。佐世保と伊万里を結ぶ旧国道が通っており、昔は水くみ場に屋根がかけてあったそうだ。今では佐賀県側の道が閉鎖されていて、長崎県側からのアクセスに限られているという。
静まり返る峠でひと際存在感を放っているものがあった。きっちり組まれた左右対称の石段と、屋根だけの小屋。その下に、湧き水が湧いていた。「長寿の水と呼ばれていて、昔は佐世保から水を汲みに来る人も多かったんですよ。10年ほど前から水量が少なくなってしまって…」
左右対称の石段は、この湧き水を佐賀県側の川へ誘導する水路だったのだ。
興味深いのは、長崎県側も佐賀県側も、水路を作って湧き水を集め、川へと誘導していること。水を有効に使おうというこの地域の人々の意思の強さを感じた。
令和に受け継がれた明治の海軍水道
国見山系を源流とする相浦川や佐々川のほかに、烏帽子岳を水源とする佐世保川など、数多くの川が流れる佐世保市。水に恵まれているように見えるが、実は水を確保しにくい土地なのだという。
そう教えてくれたのは、佐世保市役所で文化財を担当している川内野篤さんだ。源流を案内してくれた川内野善治さんの息子さんである。
「佐世保がある北松浦半島の地層は、水を通さない堆積岩の上に水をよく通す玄武岩が載る形になっています。そのため、雨が降っても地中深くまで染み込む前に湧き水として流れて出してしまうのです。そのうえ、山が低く海が近いので大きな川にもなりにくいですね」
そのため、昔から佐世保では使える水が少なかったという。
人口が少ない時代はそれでも問題はなかった。しかし、佐世保の水問題は意外な形で表面化した。きっかけは、1889(明治22)年に佐世保に海軍の鎮守府(軍港拠点)が開かれたこと。
「海軍は当初、井戸を掘ればいいと思っていたようですが、ここは昔から井戸を掘っても水が出にくく、海に近い地域では井戸水に海水が混じることもあります。そこで海軍は炭鉱を掘った際に湧き出す水を貯水池に集めて浄水し使ったのです。当然、それだけでは足りなくなり、貯水施設を次々と増やしていきました」
こうして佐世保は日本で10番目という早さで近代水道が普及することになった。
海軍が整備した「海軍水道」の施設は戦後に佐世保市水道局に引き継がれ、現在も活躍中だ。そのうちの一つ、明治41年につくられた山の田水源地に連れて行ってもらった。
ちなみに佐世保では貯水池と浄水場の機能を持つ施設を水源地と呼ぶそうだ。
最大で55万1,000トンもの水を蓄えられるという山の田貯水池は、想像以上に大きい。池というよりダム湖だ。「ダムは幅の狭い谷につくることが多いのですが、ここは赤木川と田代川が合流して佐世保川になるところを堰き止めています。そのため、堰提が300mもあるんですよ。石を積んでつくった、アース式ダムですね」と川内野さん。
ここで蓄えられた水をすぐ下にある「ろ過池」に送られ、砂でろ過するのだという。近くの建物には、ろ過に使った砂の山が今でも残っていた。
「ろ過に使った砂は定期的に洗ってこのように保管したのです。山の田浄水場では2013(平成25)年に最新の浄水場が完成したため、現在は膜ろ過装置を使っています」
言い換えれば7年前までは砂を使った緩速ろ過だったということ。もともとの水がきれいだからできたことなのだろう。
明治41年につくられた山の田貯水池。土をつき固めて築いた堰提は300mもの長さ。
水のきれいさから8年前まで昔ながらの砂を使った緩速ろ過が行われており、その砂が今も残る。
設備が市に移管されたのは戦後だが、佐世保の人々は明治時代から海軍水道の水を利用してきたという。
「当時の佐世保市には単独で水道を整備する資金はありませんでした。ルール上、海軍は軍のための設備しかつくれません。そこで、海軍水道の拡張という理由で工事を始めましたが、実際には海軍で使う水量に加えて佐世保市民が使う水量も計算に入れて、貯水池と浄水場の規模を決めていました、その上で『余った水を佐世保市に無償分与する』という体裁を取ったのです。そして、貯水池と浄水場を海軍が、市内への給水管を佐世保市が造るという役割分担を行うことにより、佐世保市の市民給水が実現しました。」
現在は市内に貯水池や取水場が18カ所あり、北部は相浦川や佐世保川、南部は川棚川が水源になっているという。海軍が残した明治の遺産とともに、この街の暮らしを支えるのは、昔も今も変わらず流れ続ける源流の水だった。
川が受け止める故人への思い
山のあちこちで水が湧き、川を形づくる佐世保では、昔から人々にとって川は暮らしの一部だったようだ。ふるさと自然の会の川内野善治さんや前回(vol.67)に登場してくれたやまめの里の七種徹さんは子どもの頃、よく川で遊んでいたという。そんな二人には共通の思い出があった。それは、お盆が終わる頃のこと。川で遊んでいると、菰(コモ:マコモという植物で編んだムシロのこと)に包まれたお供物が流れてきたという。その中にはスイカなどがあり、おやつ代わりに食べていた、と笑う。
昔から佐世保市内では、お盆のお供物を菰に包んで流す「精霊流し」が行われていたそうだ。しかし、最近では環境への配慮から川にお供物を流すのは難しくなっているという。
それでも、「大切な人の霊を西方浄土に送り出してあげたい」と願う気持ちは変わらない。
「どこか流せるところはないか」という相談が市に寄せられるようになり、立ち上がったのが市内の葬祭業界だ。毎年8月15日に佐世保川沿いの佐世保公園で、灯籠を流す万灯籠流しを始めたのだ。1984(昭和57)年に始まって以来、今年で39回目になる。
「お寺をお呼びして御供養いただいておりますが、宗派や宗教に関係なく、どなたでもご参加いただけます。ほとんどの方が紙の灯籠に故人へのメッセージを書かれますが、最近は外国人のも多く、灯籠に『world peace』と書いて流す方もいらっしゃいますね」と、万灯籠流しの運営に携わる松尾啓太さんはこう語った。
毎年8月15日に佐世保川で行われる万灯籠流し。昔ながらの紙とろうそくの灯籠に想いを乗せる。(写真提供=株式会社メモリード)
もともと長崎市出身で7年前に佐世保勤務となった松尾さん。海や川への思いは佐世保の人々と共通するものがあるという。「私は父方の祖父が漁師ということもあり、よく川や海のことを教えてもらっていました。川や海で獲れた魚を食べていましたし、とても身近な存在でした。ですから、川や海にゴミがあると、『誰が捨てたとやろか』とショックなんです。それは佐世保の方も同じなのでは・・・。」
夕闇の中、大切な人への思いを乗せた灯籠が川をゆっくりと流れていく。
源流から河口まであるこの街で、これからも人々は川によって支えられていくことだろう。
撮影=田丸瑞穂
取材・文=吉田渓