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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
古くから源流に生業を見出してきた修験道の聖地(熊野川源流西ノ川)
役行者の弟子・前鬼と後鬼の子供たちが作った修験の里
 3月の終わり、源流探検部は南紀白浜空港にいた。しかし、今回の目的地は和歌山県ではない。奈良県南部の下北山村だ。山道を車で走ること約2時間半。春浅い下北山村に到着すると、山のあちこちで薄紅色の桜の花が出迎えてくれた。  下北山村は源流の村であると同時に、修験道の聖地でもある。西側の村境にそびえるのは、標高1,200~1,900mの急峻な山が続く大峰山脈だ。山々が蓄えた水は西ノ川、奥地川、五田刈川、池郷川、前鬼川、小又川といった源流を生む。これらが村内で北山川へ注ぎ、北山川は和歌山県新宮市で熊野川に合流して熊野灘に至る。  今から約1,300年前、修験道の開祖・役行者によって開かれた大峰山脈には、吉野から熊野までのおよそ170kmの間に靡(なびき)と呼ばれる75の行場が設けられた。靡を結ぶ山岳道は大峯奥駈道と呼ばれており、75の靡のうち、実に25もの靡が下北山村に集中する。  この地で生まれ育ち、下北山村歴史民俗資料館に勤務する巽正文さんは、村と修験道の関わりを説明してくれた。 「下北山村は、75の靡の真ん中に当たる38番目の『深仙の宿』を始め、江戸時代に大峯修験の一大拠点となった29番目の靡、『前鬼』などがあるんですよ」
下北山村歴史民俗資料館の巽正文さん。県内の中学校で校長を勤め、退職後に京都大学大学院で学び直し、現職。
この地域で使われていたヨキ(斧)。刃の3本線は山の神に捧げる御神酒を裏面の4本線は「地・水・火・風」を表している。
 靡やその周辺の地域を表す「前鬼」は役行者の弟子、前鬼と後鬼に由来する。この二人は夫婦で、5人の子供(五鬼助、五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊)がいた。5人の子供は宿坊を作り、修験者を支えてきた。現在も、61代目の五鬼助(ごきじょ)さんが営む前鬼小仲坊が残っている。古代へと繋がる時空と歴史が、この村では積み重ねられてきたのだ。 「この前鬼の隣にある靡が『三重(みかさね)の滝』です。前鬼川の上流に連続する不動の滝、馬頭の滝、千手の滝を合わせて『三重の滝』と呼ばれており、水の行を行なう裏行場となっています。千手の滝には、胎蔵界窟と金剛界窟という二つの窟がありましてね。修験者は、父(金剛界)の厳しさと母(胎蔵界)の優しさに包まれながら、ここで修行を行ない験力をつけるのです。このように、下北山村は川の源流と同時に、信仰、精神の源流の村でもあるのです」。  信仰や精神の源流であることは、村の成り立ちに大きな影響を与えているという。 「前鬼には五つの修験者のお世話をする宿坊が五つ作られましたが、この前鬼を支えるためにできた里の集落が池原です。他にも、転法輪を支えた池峰、行仙の宿を支えた寺垣内(てらがいと)と、靡を支えるために里の集落ができ、それらをつなぐ道が東熊野街道となったのです」
江戸城に使う木材を運んだ筏師と筏道
 修験道の修行の場となった下北山村の自然。里に住む人々は、豊かな自然の中に生業を見出し、その恵みを受け取ってきた。その代表と言えば、やはり林業だ。 「この辺りは昔、北山郷と呼ばれていたのですが、豊臣秀吉が伏見城を築城する際、北山材が使われました。慶長元年(1596年)の慶長伏見大地震の時も、北山材を使った部分だけビクともしなかったことから、北山材に注目が集まったとされています。江戸時代に入ると、江戸城や滋賀県の瀬田唐橋など、さまざまなところに使われるようになりました」
総面積の92%を山林が占める下北山村。北山地域の木材は伏見城や江戸城にも使われた。
 伏見城築城の頃は、木材を天川村まで担いで運び、そこから伏見城へ木材を出したそうだ。さすがに大変な労役だったのだろう。そして、材木を筏にして川を伝って運ぶようになったという。筏は木を5〜6本平行に並べたものを1両として、縦に6〜7両並べて藤蔓で固定したものだ。 「この筏を運んだのが筏師です。筏師は筏の先頭に乗り、竿で川底を突いて筏をコントロールし、川を下りました。川底に竿がつかないところでは筏に積んだ櫂で舵取りをしたのです。木材は短いものでも十尺〜二間材(※一間は約1.818m)、三間材やさらに長い電柱材まであります。それらをつなぐとかなりの長さになるため、筏が流しやすいよう、川の途中にある大きな岩が取り除かれました。筏師は10人ほどで組を作っており、組の親方は川の水の具合や筏師の技量を見極めながら、担当を割り振ったようですよ」  北山材は、池郷川や西ノ川など、下北山村の源流から北山川を通って新宮まで運ばれた。と言っても、下北山村の筏師が筏に乗るのは隣の北山村の七色まで。ここで北山村の筏師にバトンタッチをして、山道を歩いて戻ってきたそうだ。筏師が歩いて帰ってきた道を筏道といい、不動峠を越える近道が筏道となったという。不動峠には地蔵堂の他に茶屋もあったというから、筏師以外にも筏道を通る人は多かったようだ。 「私の父も、筏師をやっていました。筏師は松明を手に歩いて戻ってくるので、不動峠に父の組の人数と同じ数の松明が見えると、祖母は夕飯の支度を始めたそうです。たまに、確かに組の数と同じ松明が見えたのになかなか戻ってこないことがあって、そんな時は『タヌキに化かされた!』と話したそうです(笑)」  巽さんが小学校に上がった昭和22年まで、巽さんの父は筏師をしていたそうだ。 「池原ダムができると、父は山から伐ってきた木で1両分だけ筏を作りました。その筏を足代わりにして、あの広いダムを渡っていたんですよ」
人の飲み水だったほどキレイな水で育てるアユとアマゴ
 北山川の源流、西ノ川のそばで生まれ育った西村嘉之さんの父も筏師だったという。 「足元はわらじや草履だし、雨の日には蓑を着るくらいだから、冬は寒かったでしょうね。ここから新宮までを三つに区切って、その地域の筏師がリレーしていったんですよ。朝は寒いから、親父は10時頃仕事に出て、歩いて戻ってくるのは夜やったなあ」  北山の林業を支えた筏師だったが、戦後になって道が整備されると、その役割をトラックに譲ったという。時を前後して、下北山村には奈良県最大規模の池原ダムが作られた。  生業も景色も変わった下北山村だが、源流や川の存在の大きさは今も変わらない。筏師を父に持つ西村さんは、この土地の水の豊富さを利用して、アユやアマゴの養殖を手がけている。
アユとアマゴの養魚場を営む西村嘉之さん。最近注目されているジャバラの加工品も手がけている。
西村さんの養魚場のアマゴ。源流の豊富でキレイな湧水と沢の水で見事な魚体へと育っている。
「アマゴは冷たい水で育つけど、アユは水が温(ぬく)ないと育たないんですわ。ここは奈良県でも一番南で一番温(ぬく)いんで、今日あたりでも15〜16度はあります。アマゴは0度から23度までなら育ちますから」  西村さんの養魚場の水槽を見せてもらった。5cmほどの幼魚、15~20cmのもの、35cmになる魚とサイズごとに水槽が分かれている。 「一番小さい5cmの幼魚は去年の10月に採卵したアマゴ。1年で育てたアマゴは村の桜祭りで塩焼きにしたり、お盆の掴み取りに使うんです」  目をこらすと、15cmサイズの魚の腹にアマゴならではのパーマークと赤い斑点が見えた。この元気な魚たちを育む水は、湧き水と種水(沢の水)が半々だという。 「地下から湧いてくる水は、どんなに寒くても13度くらいあるがな。せやけど、湧き水は酸素がないんですよ。(地下を通ってきて)お日さんに当たらんさかい。せやから、風車を回してその水を上からごそっと落として酸素を入れるんです。その湧き水と、お日さんに当たって酸素が含まれている沢の水を足すんですよ。アマゴの卵を孵化させる時も、湧き水は酸素がないからいけません。昔は人間が飲んでいたようなキレイな沢の水を、さらにろ過して使うんですよ」  ちなみに、下北山村では、村内のダム湖で産卵し、川を遡上した稚アユを捕獲し、成魚まで育てているのだという。アユやアマゴを育むのは、山が生み出す源流そのもの。西村さん自身もまた、源流によって育まれた人だ。 「子供の頃から家の前を流れる西ノ川で川遊びしたり、アマゴを獲っていたからね。アマゴが好きでなかったら、こんな仕事はできませんよ」
前鬼を流れる前鬼川。水面は鏡のように周囲の景色を映し、澄んだ水は川底の石の形まで見せてくれる。
 源流に生業を見出してきた下北山村。  その始まりとも言える前鬼の神秘的な光景を見たくなって、下北山村 地域創生推進室の上平俊さんに案内してもらった。  村の最北部の上池原地区を抜けると人家が消え、前鬼川沿いの道は深い緑に包まれた。途中に現れた大きな滝は、前鬼・不動七重の滝だ。七つの滝が連なっており、全体の落差は160mにもなるという。さらに進んだ先で川を見下ろすと、川の水はオリーブ色から青みがかったエメラルドグリーンへと変わっていた。川底まで見通せるほど澄んだ水を湛えた、エメラルドグリーンの淵。そこから勢いよくこぼれ落ちた水は、純白の絹糸のように姿を変えて岩の上を駆け下り、再び宝石のような淵を作る。この美しさから、いつしか前鬼川の青い水は「前鬼ブルー」と呼ばれるようになったという。  役行者の時代から流れ続ける下北山村の澄み切った水の流れ。それは、里の人々が自然の中に生業を求めることで守ってきたものだと思うと、より一層美しく見えた。