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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
暴れ天竜に挑んだ男、金原明善。その2(天竜川)
暴れ川を変える壮大な計画とは
 長野県の諏訪湖を水源に、日本アルプスの山間を流れ、浜松平野を経て遠州灘に注ぐ天竜川。その豊かな流れは恵みをもたらすとともに、たびたび洪水をもたらしてきた。幕末の旧世界から明治の新世界へと日本の社会が大きく変化する時期に、その暴れ天竜との闘いに生涯を賭けた男がいる。遠州の安間村(現:浜松市東区)出身の金原明善(きんぱらめいぜん)だ。  前回(#80)お伝えした通り、全財産を投げ打って天竜川の治水に取り組んだ明善。彼は堤防の修繕などを進める一方、天竜川の水を農業などに利用することを考えるようになった。そして1872(明治5)年に立てたのが、「天竜川分水計画」だ。これは、豊富な天竜川の水を浜名湖へ分水して運河を開削し、田畑の用水や木材運搬に利用しようというもの。この計画を発展させたのが、1899(明治32)年の「天竜川分水路開墾計画」だ。これは、天竜川の水を三方原台地へ流し、開墾を進めようという内容だ。さらに、三方原台地と浜松平野の落差を利用して、浜松平野の用水の改善や発電、舟運を実現しようとした。その計画を実行するために作られたのが、金原疎水財団(のちに金原治山治水財団に改称)だ。しかし、いずれの計画も膨大な費用が必要なことと技術的な難しさから、許可は下りなかったという。  それでも、明善の熱い思いはしっかりと引き継がれた。明善の死から15年後の1938(昭和13)年に浜名用水幹線改良工事が始まったのだ。この時、地元の工事負担金を全額寄附したのはもちろん金原治山治水財団だ。その後、1968(昭和38)年には三方原農業水利事業が完成し、1979(昭和54)年に天竜川下流水利事業が完成。最初に分水計画を立案した1872(明治5)年から100年以上を経て、暴れ天竜に挑んだ男の熱い思いは結実したのである。
稀代の事業家・金原明善は天竜川の治水だけでなく利水にも力を注いだ。写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー
 明善が1885(明治18)年に治河協力社を解散し、天竜川の改修工事事業を国に引き継いだ時、国から明善に資産が返却されることになった。天竜川の改修を行うために寄附した、明善の財産だ。一度寄附したものを受け取ることはできないと明善は固辞したが、国も返すと言って譲らない。  では、どうしたか。  返された財産を受け取ったものの私財にはせず、新しく社会事業を始めるための資金にしたのだ。金原明善の玄孫であり、明善記念館館長の金原利幸さんはこう語る。「天竜川を治めるには、堤防を作るだけではなく、上流に植林して山の保水力を上げなければと考えた明善は植林を始めることにしました。しかし、スギやヒノキといった経済林でなければ、長続きはできません。そこで明善が指導を仰いだのが、吉野林業の土倉庄三郎でした」  土倉庄三郎は「日本林業の父」と呼ばれる人物だ。植林を行う林業が昔から盛んな奈良県川上村の山林家である。土倉の著書「吉野林業全書」は日本の林業家の教科書として読まれ、広く影響を与えたことで知られる。  「明善は土倉氏から分けてもらった種から苗を育て、天竜川上流の国有林600haに植えることにしました。それが1886(明治19)年のことです」  吉野林業は1haあたり1万本の苗を植え、手間と時間をかけて育てるのが特徴だ。  しかし、『もっと早く太く育ててもいいのでは』と考えた明善は、1haあたり3,000本の苗を植えたという。  植林を始めた時、すでに56歳だった明善だが、自ら山に足を運び、苗を植えていった。ただ、植樹する土地は国有林なので献植ということになる。予定より2年早い1898(明治31)年に造林が完成すると、御料林として宮内省御料局に返納した。  「その功績が認められ、明善は御料林顧問に任命され、富士山麓や天城の御料林の植林を任されました。また、御料林の植林と並行して、天竜川中流の山間部の禿山を購入して植林を行なったほか、日本各地を回って植林指導もしていたようです。ちなみに現在、日本各地で行われている植林では、明善が行ったのと同じ1haあたり3,000本が目安になっています」
日本三大美林「天竜美林」を形作った稀代の事業家
 明善が植林した天竜川中流の山は、今も浜松市天竜区に残っており一般財団法人金原治山治水財団によって管理されている。  実際の森林の手入れを担当する㈱明善フォレストの代表取締役の大石保さんに、明善の残した森について教えてもらった。  「明善は奈良の土倉庄三郎や愛知の古橋源六郎から林業を学び、綿密に計画を立ててから林業を始めました。明善が残した森は、スギでもヒノキでも材質が特に優秀なんです。3年ほど前、木造の静岡県草薙総合運動体育館の材を出荷することになりました。しかし、巨大な木造建築に使う木材の強度は通常よりも厳しい基準が設けられています。トラック1台に50〜60本の木材を積んで木材市場に持っていっても、基準値をクリアできるのは1割ほど。たまたま明善林に初代の木(明善が植えた木)が残っていたので、細めの木を伐って天竜の木材市場に持っていってみると、9割が基準値をクリアしたのです。製材所の方々にも、『おかげさまで必要な数量を納めることができました』とお礼を言われました。改めて、明善は一級の建築材を育ててくれたんだなと思いました」  また、明善は山間部である天竜区の暮らしを大きく変えたという。  「明善が植林を始めるまでは、この地域では畑を作り、自分たちが食べる食料を育てていたようです。しかし、山につくった畑に雨が降ると、表土が流れてしまい、河川に堆積して河床が上がっていってしまいます。そこで明善は自分が植林する傍ら、地元の山林所有者にも木を植えるように説いてまわりました。こうして日本三大美林と言われる天竜美林が形作られていったのです」  明善が初めて植林した場所には明善神社がある。山の神とともに祀られているのはもちろん金原明善だ。  浜松市では毎年、1月14日に市長が主催する「明善祭」がお寺で執り行われる。ここには川や用水の関係者が参加している。それを見た山の関係者が、自分たちもやりたいと「明善神社祭」を始めたのだという。金原治水財団が主催し、毎年10月14日に明善神社で行われるもので、80回ほど行われているという。「明善の供養塔がある妙恩寺で毎年命日に明善祭が行われているのですが、明善の林業の弟子たちから『自分たちもお祀りしたい』という声が上がったそうです。そこで死後20〜30年経って明善神社が建立されたと聞いています」
不世出の実業家・金原明善(前列左端)は自ら山に苗を植えて山林を作った。
 なぜ、それほどまでに明善は山の男たちに慕われたのだろう。  すると、大石さんは即答した。  「それだけ人徳があったのでしょう。明善が自分の財産を投げ打って天竜川の治水を行ったことはみんな知っていましたし、自ら率先して動いた実践の人でしたから。明善は、大きな岩の下で野宿をしながら山に苗を植えていたそうです。その後もたびたび山にやってきては草鞋で山を歩き回り、木に絡み付いた蔓を切ったりしたそうです。しかも、『前に来た時はこの木は何寸だったが、もうこんなに大きくなったのか』などと細かく記憶していたそうですよ」  100年先を見越して木を植え、暴れ川を治めようとした明善。  しかし、近年の日本における林業の厳しさは、さすがの明善でも予見できなかっただろう。それでも、天竜美林を守る人々は、明善の思いを引き継いで山に対峙する日々を過ごす。「今、私たちは明善の森だけでなく、いろいろな山主さんの山や森林組合が管理する山林の手入れも行っています。一度植えた人工林はきちんと手入れしていかなければいけません。定期的に間伐を行い、太陽光を差し込ませ、灌木が生えると、雨が降っても表土は流れにくくなります。そうした理想の山に近づけるようにしていきたいですね」  百年後を見据えて山に木を植えた明善。彼の強い思いと理想はすくすく育ち、人々に受け継がれている。  次回は、明善が全財産を投げ打ってまで天竜川に挑んだのか、深く探って行こう。 撮影=田丸瑞穂  取材・文=吉田渓 天竜川の写真=浜松・浜名湖ツーリズムビューロー