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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
暴れ天竜に挑んだ男、金原明善(1)
天竜川に人生をかけた稀代の事業家
 度重なる氾濫によって、暴れ天竜と呼ばれた川がある。それが天竜川だ。この川で洪水が頻発した理由は、その地形にある。  八ヶ岳連峰の赤岳を源流とする水の流れは、いったん諏訪湖に集められる。天竜川は、その諏訪湖を水源として流れていき、遠州灘へ至る。その距離、約213km。注目すべきは、中流域が山間部である点。標高2,000〜3,000mの日本アルプスに挟まれた山間では、200m進むごとに1m下がるという急勾配を流れていく。山間部を抜けた流れは三方ヶ原台地と磐田原台地に挟まれた平野で網目状に広がり、砂や小石を河原に堆積させながら海へと注ぐ。  そのため、中流域の山間で降った大雨は支流などを通じて一気に天竜川に集まって増水し、洪水を引き起こす。特に平野部である浜松市では、昔から水害に悩まされてきた。最も古い記録は715年とされ、江戸時代後期には水害が頻発した。下流の村では集落をぐるりと堤防で囲む輪中堤を築いて人や家屋を守ろうとしたが、それでも暴れ天竜の猛威になす術はなかった。  明治時代になると、そんな凄まじい暴れ天竜に挑もうとする男が現れた。その男の名は金原明善(きんぱらめいぜん)。明治維新後の日本を支えた、遠江国(現在の浜松市)の事業家だ。そのスケールの大きさは、暴れ天竜に勝るとも劣らない。何せ、数々の事業を軌道に乗せながら己の全財産を寄附してまで天竜川の治水を目指したというのだ。金原明善とはいったい何者なのか、いかにして暴れ川を治めたのか。そこで、今回の源流探検部は「暴れ天竜に人生を賭けた金原明善」の生涯を探った。  JR浜松駅から車で約20分、立派な木造建築にたどり着いた。これが金原明善の生家だ。太い柱や梁が黒光りする築240年の建物は現在、明善記念館となっている。  入ってすぐ手指の消毒をすると、出迎えてくれた館長の金原利幸さんが検温してくれた。源流探検部、全員問題なし。明善の玄孫である館長は、さっそく明善と金原家について話をしてくれた。  「うちのルーツは700年前の日蓮宗のお坊さんの金原法橋です。千葉の小金原から遠州地方に開拓に来て、隣の中野町(現:浜松市東区中野町)で還俗しました。金原姓は小金原の小をとったもの。その分家の八代目として1832年に誕生したのが金原明善でした。当時の浜松藩は幕府直轄の天領で、金原家は旗本・松平筑後守の代官だったんです」
明善記念館の金原利幸館長。金原明善の玄孫としてその功績や思いを伝えている。
明善記念館ではその足跡を辿ることができる。 静岡県浜松市東区安間町1 TEL053-421-0550  (時)9:00-17:00 (休)月火水曜・年末年始
幕末の混乱期に浜松を襲った悲劇
 代官に加えて五百石の名主を務め、さらに両替商や造り酒屋などを営んでいた金原家の盛運ぶりは、この家の構えからも伝わってくる。五街道の一つ、東海道は大名行列の通り道だ。大名行列を上から見下ろすことがないよう、通り沿いの建物は平屋しか許されなかったそうだが、金原家は二階建てなのだ。ただし、その二階は通り沿いに窓がない。さらに、打ち合わせに来た代官が使う武台玄関や武士が泊まる部屋が設けられた、代官ならではの家の作りになっている。  幕末の混乱も乗り切った金原家だったが、その頃この地域を悩ませる事態が頻発していた。天竜川の水害だ。地域の顔役である金原家は水害のたびに被災住民の救済にあたっていたが、1868(明治元)年4月に浜松平野全体が水没するほどの大洪水が起こった。  「田畑は荒れ、人々は家も職も失いました。救済に奔走していた明善は京都に向かい、天竜川の治水を訴えました。しかし、できたばかりの明治政府にはその資金がなかったのです。しかし、8月になると政府から突然許可が下り、明善は堤防の改修を命じられました」  ただし、やはり資金はないので、明善は政府から派遣された旧土佐藩の岡本健三郎らとともに寄附金集めに奔走。自ら800両を差し出して8万両の資金を調達し、復旧工事と築堤に取り掛かった。実は、工事が突然始まったのには理由があった。10月に明治天皇・皇后両陛下が京都から東京へ行幸されることになり、通り道となる東海道の整備が必要になったのだ。  この時、明善は大量に雇った人々に賃金を即日現金で支払った。それによって工事がスピーディーに進んだだけでなく、職も家も失った人々を救済することにつながった。  ちなみに当時の天竜川には橋がなく、渡し舟しか手段はなかった。そこで、舟橋(船を並べた上に板を渡して通れるようにした橋)が造られ、2日後に解体されたという。この功績から、明善は名字帯刀が許された。  この経験は明善にとって、生涯をかけた暴れ天竜との闘いのスタートとなった。「その後も堤防の修繕を続けた明善は、1872(明治5)年に天竜川御普請専務という役職を申し付けられ、オランダ方式による本格的な治水計画を立てました。しかし、その計画はすんなりとは実現しませんでした」  明善は、河原に土砂が堆積するのを防ぐには川の分岐点を締め切る必要があると訴えたが、二つの問題が起こった。一つは、その川を港への水路として使っていた住民が反対し、金原家に対する焼き討ち未遂事件が起こったこと。もう一つは費用が莫大だったため、国の許可が降りなかったことだ。
治水に賭けた男が会社を手放した理由
 それでも明善は諦めず、地域住民と協力する方法を模索した。明善が設立したのが天竜川堤防会社だ。「この会社は、明善の言葉で言えば、非営利事業を行う『滋恵会社』。翌年にはこの天竜川堤防会社を治河(ちか)協力社と改称し、賛同者からの出資金と助成金によって治水工事を行う会社にしました。さらに水利学校を設立し、オランダ方式の工事技師を育てることにしたのです」  しかし、治河協力社は利益を生まない滋恵会社。厳しい財政が続いたうえ、1877(明治10)年に西南戦争が勃発したことで、国からの助成金がなくなってしまった。  そこで明善は妻・玉城とともに東京へ向かった。内務卿の大久保利通に謁見するためだ。しかし、苗字帯刀が許された明善とはいえ、庶民が内務卿に謁見するなど、普通はあり得ないことだ。「実はこの時、明善は自分の財産を差し出す覚悟を決めていたのです。それでもだめなら天竜川に沈む覚悟で謁見に向かいました。これは、のちに明善が提出した財産目録です」  館長がガラスケースに入った財産目録を指さした。そこにはガラスのコップの数まで詳細に書かれており、すべてを差し出す覚悟が見て取れる。明善の思いは内務卿を動かし、年間2万3,000円の補助金を10年間出してもらう約束を取り付けた。明善の全財産約6万5,000円から金原家の生活費、長男の家業資金などを差し引いた5万6,016円7銭を治河協力社に寄附した。こうした明善の行動は予想外のできごとをたらした。「大久保からこの話を聞いて感銘を受けた昭憲皇太后から『浅しとて せけば溢るる川水の 心や民の心なるらん』という歌が明善に下賜されたのです。それがきっかけとなり、政界をはじめ、多くの人が明善に関心を持つようになりました」  謁見の半年後、大久保利通は暗殺されてしまうが、補助金を承認する書面に本人の署名捺印があったため補助金が下り、本格的な改修工事が進められた。  「1880(明治13)年に改修工事が国から県の事業となりました。その頃、オランダ方式では土砂が堆積しやすいことがわかってきました。そこで明善は工部大学校(のちに東京大学工学部と合併)の学生をフランスに留学させ、フランス式の土木技術を習得させています」  しょっちゅう流れが変わっていた天竜川は、改修工事によって流れが固定するなど、状況は好転していった。一方で、明善の熱い思いとは相反する事態が起こる。治河協力社では効率よく改修を行っていたため、余剰金が増えていった。すると、設立当初は明善がお願いしても出資を拒んでいた人が、利益が出ると見るや出資を希望するようになったのだ。「明善にとって治河協力社は利益を生む事業会社ではなく、世のため人のために行う滋恵会社。そこで、明善は治河協力社を解散してしまいます。そして、培ったノウハウや測量機械、育成した技師もすべて国に引き渡し、治水工事を国直轄の事業にしてもらったのです」  しかし、暴れ天竜と明善との闘いは、これで終わりでなかった。  その闘いの続きは、次回またお伝えしましよう。 写真=田丸瑞穂 取材・文=吉田渓
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