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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
関東1都5県の源流は自然博物館(利根川源流)
源流なのにお風呂を炊くのに半日かかった
 12月のある朝、源流探検部は群馬県みなかみ町にいた。利根川沿いに広がる水上温泉の温泉街を抜けると、紅葉の名所としても知られる諏訪峡が見えてきた。川沿いの遊歩道の周りの木々はすでに葉を落としている。その分、エメラルドグリーンに輝く川の美しさが際立つ。舞い始めた雪が、澄みきった川面へと吸い込まれていく。聞こえるのは川のせせらぎと、時おり聞こえる鳥の鳴き声、そして自分たちが落ち葉を踏み締める音だけ。厚い雲の隙間から顔を出した太陽の光に、雪片がキラキラ輝く。いつも東京で飲んでいる水の源流には、いつまでも見ていたい風景が広がっていた。  標高1,831mの大水上山から始まり、322kmの距離を流れて太平洋へ注ぐ利根川。その水を水道水として使っている人は関東1都5県で3,055万人にのぼる。その源流域に位置するのが群馬県みなかみ町だ。広大なみなかみ町の中でも源流に近い地域は藤原と呼ばれ、百名山の五つである「谷川岳・武尊山・平ヶ岳・巻機山・至仏山」に囲まれている。  そんな藤原地区の平出(ひらいで)集落に住む林明男さんは、意外なことを口にした。 「平出は水に苦労した場所なんです」  水が豊富なはずの源流域でなぜ?   その理由は江戸時代にさかのぼる。「平出のほとんどを占める林姓のルーツは岐阜県揖斐川町です。うちの先祖である林七郎右衛門正通は美濃国の城主で、幕府の材木奉行でした。ある時、沼田城主から山の木を伐り出して利根川に流し、江戸へ送るよう、依頼されました。そこで人夫を引き連れてこの地に来たのですが、災害か何かがあって責任を果たせなかったようなんです。そのため帰るに帰れず、ここに居ついたというワケです。でも、藤原は平家の落人の里でしょう。沢や湧水がある場所には、すでに他の人が住んでいたんでしょうね。人が住んでいなくて水がある場所が、この平出だったんです」  しかも、山の中腹なので谷沿いを通る道からは見つかりにくい。ひと目を忍ぶ隠れ里としては最適だった。「ただ、湧き水は2ヶ所しかなく、水量も少なかったんです。山の中腹の集落だから、谷川の水を引いてくることもできません。そのため水がたくさん必要な田んぼを作れず、みんな職人になったようです」  江戸時代から残る湧水に案内してもらった。  「これです」と、明男さんが指さしたのは小さな水たまり。澄み切っているが、知らなければ見過ごしてしまうだろう。
美濃国の材木奉行の子孫、林明男さん。先祖の刀は戦時中に供出させられたそうだ。
平出集落の人々の暮らしを支えていた湧水。水量は少ないが澄みきっている。
 昭和16年生まれの明男さんが言う。「昔はバケツなんてないから、手桶にこの水を溜めて使うんですよ。水が溜まるのを待っていられるほど暇なのは子どもか年寄りくらい。だから、水汲みは子どもの仕事でした」  飲み水、料理、お風呂。使う水は全部ここで汲んで大事に使った。 「大変なのは風呂の水。手桶に14杯汲まなくちゃならないから半日かかるんです。うちは水場が近かったからよかったけど、遠い家は大変でしたよ。風呂を立てている(沸かしている)家にもらいにいく人も多かったですね」  けれど、少し山を下れば利根川が流れているため遊び場には苦労しなかった。 「子どもの頃はよく魚を獲っていました。昔の利根川は、今よりもっと深くて青いところもあって。そういうところはおっかなくて近づけなかったですね」
ダムとともに水道、そして田んぼができた
 そんな平出に水道が通ったのは1958年(昭和33年)のこと。  きっかけはダムだった。昔から利根川流域では何度も洪水が起こっており、藤原地区を流れる利根川には、昭和22年の台風で利根川流域にも大きな被害が出てダムが建設されることになった。  現在、みなかみ町には主要なダムが五つあるが、その一つが平出集落のすぐにある藤原ダムだ。「いくつもの集落が藤原ダムの湖底に沈んだのですが、平出は山の中腹にあったのでそのまま残ったんですね。そして、ダム湖に沈む道路の代替道路として、そこの山にトンネルが通ったことで、平出地区に水道が引かれたのです」
林さんが指差すあたりが平出集落でその下は現在、藤原ダム湖となっている。
澄んだ水を称える利根川。昔はこの流れを使って木材を江戸へ送っていた。
 水道が通って水汲みの必要がなくなったうえ、田んぼも作れるようになった。 「うちも田んぼを始めたのですが、一枚一枚が小さいし、収穫量が少なくてね。6月には食べ終わっちゃうんですよ。親戚の田んぼを手伝って、お米をもらっていました」  しかも、ここは関東でも有数の豪雪地帯だから、冬は農業そのものができない。 「入会地(共同所有地)の木を伐って薪にして、道に積んでおくんです。すると、道を通る業者が薪を持っていく代わりに、お菓子だの砂糖だのを置いていってくれるんです。物々交換ですね。あとは、材木の伐り出しを手伝いました。スギやヒノキもあったけど、だいたい雑木です。伐った木は木馬(キンマ)と呼ばれる土橇に五石(2~3㎥)ほど載せて武尊神社から県道まで引いていました。道も集材機もないから、木を山からおろしてくるのも、雪の上に道を作りながら橇を引くのも全部人間がやるんです」  明男さんはさらりと言うが、武尊神社から県道までは約6km。地元の人も驚くほどの重労働だ。「ただ、ここは水がいいでしょう。夏は谷でワサビを作っていました。水上駅から鉄道で東京に送るとお金が送られてくるんです。1kg当たり1,500円から3,000円と、貴重な現金収入でした」  水に苦労した一方で、水を育む山の幸に生かされてきた。  そんな暮らしが源流の里にはあった。
水を上手に使う源流の知恵
 平出集落と同じ藤原地区にありながら、水に恵まれていたのが山口集落だ。  ここで生まれ育ち、藤原案内人クラブの会長を務める林親男さんが、こんな話をしてくれた。「沢も湧水もそこら中にあるから、飲み水には苦労しませんでした。家の敷地に引いた水は流しっぱなしなので『流れ水』と言ってね。どうしても近くに沢や湧水がない家は井戸を掘っていました。ここは水が本当にきれいで、小川には水藻、井戸にはホタルがいたほどです」  数軒の家が同じ沢や湧水を使うこともあったという。 「この辺りでも『三尺流れれば水清し』と言ったけど、下流の家に汚れた水は流せないですよね。だから、野菜なんかを洗って汚れた水は自分の畑に引き込んで、下流に流さないようにしていたんです」  他の源流の郷でもよく聞く「三尺流れれば水清し」という言葉。これは使った水を下流に流すための言い訳ではなく、自分のところで再び使う理由だったのだ。  「田んぼの水は、利根川の支流である名倉川から堰(用水路)を引いていました。ただ、傾斜を利用した用水路の水は流れが速いうえ、水が冷たいので、いきなり田んぼに入れると米がよく育ちません。そこで、田んぼの周りに土で小さな水路を作ったのです。田んぼの周りをゆっくり回っている間に太陽光で温められますから。それでも、やっぱり水口(水の入り口)は育ちにくく、水温が高い出口付近の方がよく育ちますね」  寒さは厳しいものの、豊かな水と自然のおかげで人々は平和に暮らしてきたという。周辺に次々とダムができ、人口が増えると、自分たちで小水道組合を立ち上げ、町営水道とは別の水道をつくった。「水道なので、水道法に則り塩素消毒を行っています。この地域は沢の水、湧水、それから水道の水が使えるわけです。学校のプールも、地元の水道水を使っているんですよ」  藤原にある「宝えんの泉」や「十王水」といった採水場は、地元で使いきれなかった余水を誰でも汲めるようにした場所。観光ガイドなどにも載っておらず、自然の中に溶け込むような佇まいは、水の豊富な水源の町らしい光景だ。
奥利根水源憲章の制定などに関わった藤原案内人クラブ会長の林親男さん。
豪雪地帯の藤原にある大幽洞窟で見られる氷筍(写真提供:みなかみ町観光商工課)
 2002年(平成14年)、地元住民が中心になって指針づくりを行った奥利根水源憲章が制定された。これは、源流の自然や文化を守りながら地域を活性化していくという誓いと、そのための行動指針をまとめたもの。それらをわかりやすく歌詞に盛り込んだ合唱曲「利根川源流讃歌」は地元の人々に歌い継がれている。  さらに、ダムができた後もさまざまな動植物が見られる藤原では、地域を丸ごと自然博物館に見立てることにした。その「展示物」の一つに氷筍がある。氷筍とは滴り落ちる水滴が凍って上に伸びた氷のこと。  2000年(平成12年)の冬、親男さんが大幽洞窟で見つけた。  「洞窟に入ってみると、何百もの氷筍があったんです。大幽洞窟のあたりは2mほど雪が積もるので、スノーシューを履かないと行けませんが、一般開放しています。氷筍を守るため、『ここから先は立ち入らないでください』という看板を置いたのですが、みなさんちゃんと守ってくださるんですよ」  親男さんはそう言って嬉しそうに笑った。「自分たちが守ってきたものを他の地域の人々も一緒に楽しみ、大切に扱ってくれている」という喜びが見て取れた。  源流域の自然と文化。それは今後さらに貴重なものとなっていくことだろう。 撮影=田丸瑞穂 文=吉田渓