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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
北海道の名付け親も称賛した北の清流(後志利別川源流)
サケもメノウも! 人を潤す川の恵み
 ここで問題です。 「後志利別川」は何と読むでしょうか。  答えは、「しりべしとしべつがわ」。  思わず誰かに読み仮名を教えたくなる後志利別川は、国土交通省の水質調査でこれまで18回も「水質が最も良好な河川」に選ばれている清流だ。その源流域を目指し、源流探検部は朝一番の飛行機で函館空港に飛んだ。  源流域の瀬棚郡今金町までは、函館空港から車で2時間半。左手に山、右手に海が同時に見える高速道路を北へひた走り、今金町に入るとすぐに後志利別川が現れた。秋雨前線の影響で雨が続いているためか、水量が多い。 「この川は全長80kmなのですが、29もの支流がすべて本流に注いでいるんです」  そう教えてくれたのは、今金町の外崎秀人町長だ。 「町境の太平山から長万部岳までの山岳稜線から発したこの川は、お隣のせたな町で日本海に注ぎます。昔は利別川という名前でしたが、十勝支庁を流れる同じ名前の川と区別するため、瀬棚郡の昔の呼び名である後志をつけて後志利別川になったんですよ」  今でも地元では利別川と呼ばれているこの川は、開拓の歴史に何度も登場する。 「幕府が蝦夷地調査を始めたのが1785年(天明5年)のこと。1845年(弘化2年)には、西蝦夷地踏査の際に後志利別川を遡ったことが蝦夷日記に記されています」  北海道の名付け親である松浦武四郎は、1857年(安政4年)に5日間に渡って後志利別川を詳しく調査している。その様子を記した「丁巳東西蝦夷山川地理日誌 下」では、この川の透明度を「水が清浄なので深い川底に毛を一本沈めても、手のひらに置いた時と同じように見える」と称賛している。さらに、「急流で船の荷物が川に投げ出された時も、水が透明だったので、引き上げることができた」とも書いている。
今金町の外崎秀人町長。父が魚の卸業を営んでいたこともあり、川や魚への思い入れも強い
清流として知られる後志利別川。この川を調査した松浦武四郎も、その透明度を称えた
 松浦武四郎がその透明度に何度も触れた後志利別川は、流域にさまざまな恵みをもたらしてきた。 「今金町には花石という地名があるのですが、これは花のような石、つまりメノウが川で採れたことから付けられたのです。また、この辺りは昔からサケが遡上することで有名でしてね。後志利別川の支流である種川はもともと『メップ川』という名前でした。しかし、明治26年に埼玉から移住してきた人々がサケの天然繁殖を守り、魚を増やす種の川にしようと力を入れたことから、種川という名前になったのです。私より年上の町議さんの話では、昔はサケの遡上時期に馬で渡ると、川が真っ白になったそうですよ。繁殖のために集まったサケで、足の踏み場もないほど埋め尽くされていたからなんです」  後志利別川の河口ではサケ漁が盛んに行われたが、それゆえ数が減ってしまった。そこで、サケの産卵遡上期の漁を禁止した上で、天然繁殖しやすいよう保護したというワケだ。こうした、天然繁殖による増殖を図る取り組みは、「種川制度」と呼ばれていたという。  外崎町長は、魚の卸業を営む父が後志利別川の魚を扱っていたこともあり、魚や川への思い入れが強い。 「このきれいな水を守るには、山を守らなければいけません。後志利別川は一級河川なので国の管轄になりますが、町としても大切にしていく必要があります。とはいえ、余分なことをするのではなく、これまで通り、山や川と自然な関わり方をすればいいのだと思います」  町内の2つの小学校では毎年、水生生物調査を行っているという。川への思いは、次世代に確実に繋がれているようだ。
遡上する魚を守る清流の仕組み
「水質が最も良好な河川」に18回も選ばれている後志利別川。水質が保たれている理由を今金河川事務所の元山達所長はこう説明する。 「今金町とせたな町を合わせても、流域人口は約1万人程度です。流域の81%が山林、14%が水田や畑で、宅地などは5%しかありません。流域の大半が山林に囲われており、宅地などは中流域から下流域ですし、汚れる要因がとても少ないんです」  川の豊かさはそこに棲む生き物に表れる。魚ならサクラマスやイワナ、アユ、サケ、カワヤツメ(ヤツメウナギ)、イトヨ、ハナカジカ。虫なら、エルモンヒラタカゲロウやアカマダラカゲロウと、きれいな水を好む魚や昆虫がココに棲んでいる。  しかし、山々に降った雨や雪が集まる後志利別川は水量が豊富で、毎年のように洪水が起こる暴れ川でもあった。木橋の時代には、橋が流されたという証言もあるほど、その流れの強さは凄まじい。この土地に住む人々は、時々暴れる川と格闘しながら、今金町を形作ってきたという。 「平成3年(1991年)、上流に美利河(ピリカ)ダムが作られました。このダムは、洪水調整だけでなく、灌漑(農業用水)や発電、流水の正常な機能の維持といった役割も持っているんです」  後志利別川には排水機場が2カ所あるほか、樋門が59ヶ所あり、そのうちの41ヶ所が今金町内のものだ。ちなみに樋門とは、堤防を横切ってつくられた水を導く暗渠のこと。農業の排水機場も3ヶ所設置され、万が一の水害への備えに力を入れている。  ただ、ダムがあると気になるのが、この川を遡上する魚たちだ。 「美利河ダムには魚道が造られているんです。アユやサケ、サクラマス、カワヤツメとなど、この魚道を通って最終的にはダム上流のチュウシベツ川に遡上していきます」  しかも、上流で生まれた魚が川を降下する時、間違ってダム湖に入り込まないよう、ダム上流には分水施設が設けられている。分水施設は水路のような形をしていて、右側には庇が設置され、左側は底が白く塗られてライトアップもされている。魚は暗いところを好むため、水路の右側を進んで魚道に導かれ、水路の左側からはダムへと水が流れていくというワケだ。  魚道がどんなものか、本当に魚が遡上できるものなのか、美利河ダムまで見に行ってみることにした。後志利別川の西岸から西へ2.4km続く魚道を追っていくと、水族館の水槽のようなものが現れた。魚道の側面に作られた観察窓だ。覗き込むと、10cmほどの銀色の魚が元気いっぱいに泳いでいる。アユのほかにパーマークが特徴的なヤマメもいる。その力強い泳ぎは、後志利別川の生命力そのものに見えた。
後志利別川について教えてくださった、今金河川事務所の元山逹所長
源流につながる魚道。側面の観察窓を覗くと力強く泳ぐアユやヤマメの姿が見えた
河原にゴミを捨てたくはない理由
 河川事務所と協力して河川敷の清掃活動を行っているのが、NPO法人・後志利別川清流保護の会だ。ゴミマップも、この清流保護の会が作っている。理事長を務める竹内正夫さんは、この活動の原点についてこう話す。 「やっぱり、感謝の気持ちからだと思いますよ。後志利別川は、かつて蛇行していましたが、改修工事で川の流れを変えたため、河川敷が広く残っています。今金町がこの土地を借り上げてグラウンドを作り、管理してくれているのですが、『ただ利用するだけでは申し訳ない』と住民有志でゴミ拾いをということになったのです。現在、会員は町内を中心に40名おり、年に2回ゴミ拾いをしています。1回は河口のゴミ拾い、もう1回は河川敷です。今金町内の河川敷だけでなく、せたな町の方々と一緒にせたな町のサケ観察広場でもゴミ拾いをしています。広い河川敷などにゴミがそのままになっていると、『捨ててもいいか』という気持ちになりがち。だからこそ、ゴミ拾いが必要なのです」  さらに、15年ほど前から河川敷に植樹をして清流の森を作り、その手入れも続けているという。
NPO法人後志利別川清流保護の会の理事長を務めている竹内正夫さん
清流保護の会では、源流の環境そのものを守ろうと植樹を行い手入れも続けている
「これまでブナやナラ、防風林となるトドマツやカラマツ、水場にヤナダモなどを植えてきました。6月下旬から下草刈りをして、秋の植樹に備えるわけですが、これでいいということはなく、ずっとやっていかなくてはいけません。先人たちはこの後志利別川を利用して生きてきました。だからこそ、この川を後世に引き継いでいきたいと思っているんです」  竹内さんは、穏やかな笑顔でそう言った。それは、外崎町長の「後志利別川を自然からいただいた状態で下流に流さなくては・・・」という言葉と重なる。  18回も水質が最も良好な河川に選ばれてきた後志利別川。自然がもたらしてくれるその恩恵はあまりにも大きい。そして、それを守っているのは、この地に生きる人なのだと改めて感じたのだった。 撮影=田丸瑞穂 文=吉田渓
参考資料
  • 「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」(秋葉実解読 北海道出版企画センター発行)
  • 「後志利別川清流図鑑」(後志利別川に親しむ会編 今金河川事務所発行)
  • 国土交通省ホームページ