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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
名人から受け継いだ技術と知恵
名人から受け継いだ技術と知恵
 青森県から栃木県まで500kmも連なる奥羽山脈。その中ほどにあり、宮城県と山形県の2県にすそ野が広がる蔵王連峰。蔵王連峰の東側の斜面から始まる白石川は、七ヶ宿ダムへと注ぐ。東京ドーム約90杯分に当たる1億900万㎥もの容量がある七ヶ宿ダムは、宮城県内の8市9町に飲み水や農業・工業用水を提供している。  この七ヶ宿ダムがある場所が江戸時代に宿場町として栄えた七ヶ宿町だ。森林面積が約9割を占めるこの町では、かつて炭焼きが暮らしを支えていた。その生産量は、宮城県内でもトップクラスだったという。前回Vol.52で登場していただいた、七ヶ宿源流米ネットワーク代表の梅津賢一さんがこんな話をしていた。 「うちのじいちゃんは、炭検査官だったんですよ。炭をまとめて出荷する時に検査をする人です。検査した炭は、馬ぞりで山形側まで運んでいたようですよ。私たちのじいちゃんの世代までは、冬は炭焼きで生計を立てていたんです」(梅津さん)  戦後、エネルギー源は木炭から石油や電気、ガスへと移り、木炭の需要は大幅に減った。しかし、2011年に東北地方を襲った東日本大震災を機に、再び木炭の存在価値が見直されているという。現在、七ヶ宿町で炭を焼いている人は4人。そのうちの1人である佐藤光夫さんの工房を訪ねた。  佐藤さんの炭焼き工房「すみやのくらし@七ヶ宿の白炭」の前で車を降りると、さっそく炭が焼けるいい匂いが鼻をくすぐった。奥の炭焼き小屋から、煙がすっと立ち上っている。  二つの窯で炭を焼きながら、「炭には黒炭と白炭の2種類あるんです。黒炭は、窯を密閉して低温(400〜700度)で焼き、窯の中で冷ましてから取り出すもの。一方、私が作っている白炭は、高温(1,000度)で焼いて真っ赤になった状態で窯から出し、スバイ(消し粉)を掛けて消火するんです」と、佐藤さんが教えてくれた。
七ヶ宿町で炭焼き工房「すみやのくらし@七ヶ宿の白炭」を営む佐藤光夫さん
白炭の窯は1,000度にも達する。隙間から見える窯の中は赤々と燃えていた
 源流探検部も以前(vol.19山梨県小菅村)で炭焼きを体験したことがあったが、あの時の炭は黒炭だった。黒炭は完全に火が消えてから窯に入って炭を取り出す。一方、白炭は炭が燃えている状態で取り出し、窯の温度が冷える前に新たな原木を入れて炭を焼く。熱さと緊張感に満ちた重労働は1時間にも及ぶ。 「右の窯は2日後、左の窯は3日後に窯出しをするので、その間に山で木を伐って、次の窯入れの準備をしています」(佐藤さん)  炭焼きに使うのは、主にコナラの木。1.5mの長さのコナラが1回の窯入れに軽トラック1台分は必要だという。窯に入れる木の太さは、佐藤さんの二の腕くらいが目安なので、それより太い木はオノで割り、炭の仕上がり具合を窯入れに前に揃えるワケだ。  愛知県出身の佐藤さんが七ヶ宿町で炭焼きを始めたのは、29歳の時。山仕事をしたいと思っていたが、炭焼き名人と言われた佐藤石太郎さんと出会ったのだという。 「当時72歳だった師匠は後継者を探していたんです。そこで先ずは10回、師匠と一緒に炭を焼き学びました。その後は一人で炭を焼いて、分からないことがあれば聞きに行っていました」と、佐藤さんは当時を振り返った。  手取り足取り教えてもらうというよりも、昔ながらの「見て覚える」職人気質のスタイルだったという。その一方で、師匠は炭焼きの文化そのものを教えようとしてくれたそうだ。 「昔は何人か共同で山(の木)を買ったそうです。木を伐る場所を決めるのはくじ引き。まずは『花くじ』でくじの順番を決めてから、場所を決めるくじを引き、最後に直会(なおらい)をしたそうです。師匠は僕にも体験させたいと思ったのでしょう、一緒に山を買うことになりました。二人しかいないのに花くじから引いて(笑)、ちゃんと直会までやったんですよ」と微笑んだ。
炭焼きは山を健康にする仕事
 炭焼きの技術だけでなく文化も受け継いだ佐藤さん。しかし、窯の作り方では、師匠と若干の違いがあるという。 「師匠の時代、炭焼きを行うのは冬だけでした。また、窯は木を伐り出す山に造っていたので、伐り出す木がなくなれば、その窯の役目は終わり。そのため、それほど丁寧につくる必要がなかったんです。しかし、今は据え置きの窯を繰り返し使うため、耐久性が重要です。『熱する・冷やす』を繰り返すうちに天井が開いてきてしまうので、何度も補強していますね。ただ、時代が変わっても欠かせないのが水。窯の粘土を練ったり、スバイに水をぶったり(撒いたり)、万が一の時には消火します。だから、炭焼き窯は沢のそばにつくるんです」  佐藤さんが作る白炭は、仙台の焼き鳥店などのほか、火鉢で使いたいという個人顧客にも愛用されている。また、佐藤さんの奥さんが作るクッキーは、炭のパウダーが練りこまれており、七ヶ宿町ブランドのお土産として人気だ。
山から伐り出した木は、ちょうどいい太さになるようオノとカナヤ(くさび)で割る
佐藤さんが焼いた白炭。燃焼時間が長い白炭は飲食店などの需要が高い
 さらに、佐藤さんは炭を使ってさまざまな取り組みを行っている。 「近年、山で見られる木の立ち枯れ。その原因は諸説ありますが、元東邦大学教授の大森禎子博士の『酸性雨とそれによる土壌の酸性化が原因ではないか』という考え、私にはしっくりきたんです。そこで、仲間と『水守人の会』を結成し、七ヶ宿町や大森博士と一緒に、町内の森に炭を撒く活動を始めました」と強い言葉とした。  炭を撒くことには、もう一つ意義があるという。それは「炭素の固定」だ。樹木は大気中の二酸化炭素を吸収し、炭素として取り込みながら成長を続ける。木が伐採されても、炭素は木に固定されて(閉じ込められて)いる。そのため、森林そのものだけでなく、木材を使うことも地球温暖化防止に繋がるとされる。 「木炭は炭素の塊ですから、木を炭にすることでも炭素を固定できます。ですから、炭を撒くことで、もともと地中にあった炭素を土に返すことができるんです」と、佐藤さん。  かつて宿場町であった七ヶ宿町では毎年夏、「わらじで歩こう七ヶ宿」というイベントが行われている。その参加者に炭を配り、イベントコースにある町有林で撒いてもらっているそうだ。 「炭を通して、山を健康にできればと思っています。炭焼きに使う木を伐ってもまた萌芽更新(根から新たな芽が生えてくること)しますから、炭焼きは持続可能な、いい仕事だなと思っています。最近、いろいろな分野の方から『炭でこんなことができるんじゃないか?』というお話を頂くんです。これからは化学からアートまで、多方面に炭を活かしていけたらいいですね」と、佐藤さんは誇らしげに語った。
ダムが変えた源流の町の在り方
 自然を生かした生業が今に伝わる七ヶ宿町。この町の今の姿を一言で表すキーワードが「水守の郷」だ。その言葉の意味を、七ヶ宿町の小関幸一町長が教えてくれた。 「山々に囲まれた七ヶ宿町の各地区では、昔から沢の水を水田に引いたり、川端(かばた)として使っていました。川端とは、水路の上に小屋をこしらえた水場です。ここで漬物を漬けたりしたほか、冷蔵庫がなかった時代には川端の水で野菜を冷やしていたんですよ」  昭和40年代の始めまでは、町の各地にあった川端だが、道路とともに用水路が改修されたタイミングで姿を消した。しかし、今も横川地区には川端が残っているそうだ。この地区には、白石川の支流・横川が流れており、水が豊富なのだという。  そんな七ヶ宿町の転換期となったのが、1991年(平成3年)のこと。  この年、町内に七ヶ宿ダムができたのだ。 「七ヶ宿ダムによって町内の三つの地区が水没することになり、640人の町民が移転しました。その結果、町の人口が3,000人から2,300人に減少したのです」(小関町長)  あまりにも大きなこの変化を、七ヶ宿町の人々は真正面から受け止めた。 「七ヶ宿ダムの水を使っている人は、183万人にのぼります。町の大半がダムの上流に位置する七ヶ宿町では、『ここに住んでいる我々が自然を守り、安全で美味しい飲み水を提供しよう』と強く意識するようになりました。そこで、『水守の郷』として、水を大切にする取り組みを始めたのです」(小関町長)
「ダムを通じて源流の文化や自然に興味を持ってもらえたら」と話す七ヶ宿町の小関幸一町長。
町のイベントなどでは木炭を町有林に撒く試みも。炭焼きが盛んな町ならでは
 川に汚水を流さないよう下水道処理設備を整えたほか、畜産農家では家畜の糞尿を野積みにせずに屋内施設で堆肥にするなど、水質を守る努力を続けているという。 「農家の方々も、水への負荷を減らそうと減農薬・減化学肥料に取り組んできました。町としても定期的に森林整備を行なっています。木材価格の低迷や薪炭需要の低下で山の手入れをする人が減りましたが、山が元気でないと『いい水』をダムに送れません。まずは林道や作業道が通っている山林から道端林業から始めて、ゆくゆくは整備を広げて行けたらと思っています。今年の4月にはウッドチップを熱源とした入浴施設、『Wood & Spa や・すまっしぇ』もオープンしましたから、放置された林地残材や間伐材を使うのもいいですね。今年から森林環境譲与税も始まったことですし、伐採した山林に再造林して循環型社会をつくっていけたらいいですね」と、小関町長は意気込みを言葉にした。  自然を守ることで、きれいな水を守る。だから、ここは「水守の郷」なのだ。 「私たちが水を大切に守ることで、下流域の皆さんに七ヶ宿町に関心を持っていただければ嬉しいですね」と、小関町長は微笑んだ。
 小関町長の話を聞いたら、どうしても川端を見てみたくなった。ふるさと振興課の平賀健郎さんと安藤友幸さんの案内で横川地区を訪ねると、わずかに上り坂になっている道の脇に、2畳くらいの小さな建物が並んでいた。川端だ。
水路が勢いよく通る川端の内部。年間を通して温度が一定だという水は冷たかった
水路が勢いよく通る川端の内部。年間を通して温度が一定だという水は冷たかった
 よく見ると、建物は水路をまたぐように立っている。 のぞき込んだ水路を澄み切った水が勢いよく流れていく。川端の中を見せてもらうと、建物の中を水路が走っている。なんとも不思議な光景だ。棚にいくつも樽が並んでいる理由を、平賀さんが教えてくれた。 「このあたりは漬物だけでなく、山菜なども塩蔵で保存する塩蔵文化なんです。ですから、川端があると大量の塩を水で洗い流せるので便利なんですよ」  しかし、塩を洗い流しても、野菜についた土などはココではなるべく洗い流さないのだという。というのも、この地区では一戸に一つ川端を持っており、それが水路沿いに並んでいる。上流で土を洗い流したりしたら、下流の人は汚れた水を使うことになってしまう。下流の人のことを考えながら水を使うことは、この地域の人にとっては当たり前の思いやりなのだろう。  きれいな水をなるべくきれいなままで下流に流す。  その考え方は、ダムができたことを機に生まれたものではない。それは、水が豊かな源流域の人々が育み伝えてきた文化そのものだ。その源流文化は、ダムを擁する水守の郷でこれからも受け継がれていくことだろう。水が豊かな日本、各地の源流域を訪ね歩く中、どの町村でも同じ言葉が返ってくる。水に恵まれた国土も、こんな思いが水を守っているのだと改めて思った。