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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
500年の伝統を継承する村の大きな決断(紀の川吉野川源流)
日本林業の先駆者が始めた新たな戦略
 水を作るのは、山と木々だ。だから、水源の村の人々は、昔から山や木とともに生きてきた。中でも、奈良県にある川上村は造林発祥の地であり、吉野林業の中心地として名高い。この連載の第13回と第14回でも紹介したが、村として広大な原生林を買い、守り続けている川上村のことを、まだ伝え切れていない。そんな思いが残っていた源流探検部は、今年も川上村を訪れることにした。  総面積の95%を山林が占める川上村の朝。東の稜線から顔を出したばかりの太陽に照らされながら、山道を車で走る。吉野杉は日本三大人工美林に数えられるだけあって、窓から見える林はとても美しい。車を止めて、道路脇の美林を仰ぎ見た。  スギもヒノキも、ひたむきに天を目指すかのように上へ上へと伸びている。その幹は根元と上部までほぼ同じ太さで、節がなくまっすぐだ。木はどっしりと太いのに、木と木の間が十分に空いているから、林の中がとても明るい。リズミカルに立ち並ぶ木々の間から差し込む真新しい朝日が、林の中に光の柱を立てる。大人が二人がかりでやっと抱えられるというほど太い木は、樹齢約250年の杉だという。
吉野林業の中心地である川上村のスギ林。樹齢250年のスギが間隔を空けて並んでいた。
 これだけで驚いてはいけない。この村では室町時代から造林が行われていたことが分かっているほか、現在も樹齢約400年の人工林が残っている。なにせここは、「日本林業の父」と呼ばれ、林業の近代化にも大きく貢献した土倉庄三郎を輩出した土地なのだ。  吉野かわかみ社中 事務局長の森口尚さんに、500年の歴史を持つ吉野林業とはどんな林業なのか、教えてもらった。 「吉野林業の特徴は『密植・多間伐・長伐期』。ほかの産地の3倍もの密度で苗を植えて競争させ、何度も間伐しながら長い時間をかけて質の良いスギやヒノキを育てるのです。そして、自分の子供を撫でるように大事に育てる『撫育』も吉野林業ならでは。こうして育てられた吉野材は、年輪の幅が細かく均一で、節がありません。また、木の根元と上部の太さがあまり変わらない円柱形であること、色艶や香りがいいことも特色です」(森口さん)  ほかの産地であれば、長くても樹齢70〜100年で切り出すが、吉野材では少なくても100年をかけ、200〜300年も手入れをすることもある。その分、収益が上がるまで時間がかかってしまう。そこで、山林を村外の資本家に所有してもらい、村人が山守として山林の管理をすることで収益を上げる「山守制度」が生まれた。森口さんの父も山守だったという。 「私も中学生の頃、親父の植林を手伝ったことがありました。今でも、山の見回りをしながら、『ここは親父と苗を植えたところだな』と思い出すんですよ」(森口さん)  
吉野かわかみ社中 事務局長の森口尚さん。中学時代から山守の父の手伝いで山に入っていたという。
吉野材の特徴には、年輪の幅が細かく均一であること、節がないこと、色艶が良いことなどがある。
 自分が植えた苗を子や孫、さらにはその先の世代へ引き継いでゆく。そうやって何世代にもわたって山林を守ってきたからこそ、川上村は林業の村であると同時に、水源の村であり続けたのだ。  しかし、1973年から1993年にかけてピークを迎えた原木単価は、1997年から急激に下落している。このままでは吉野林業が衰退してしまう。そんな危機感から設立されたのが、森口さんが事務局長を務める一般社団法人 吉野かわかみ社中だ。 「村と林業木材業界団体が連携し、山づくりから木材の加工・流通、安定的な供給体制を図って行くために作られたのが、吉野かわかみ社中(以下、社中)です。社中は、第二の村役場のようなもの。業界団体を支援し、村外への営業を行うほか、加工所も運営しています」(森口さん)  現在も、森林組合や素材生産業者、原木市場などは別々に事業を行っているが、村が中心となって作った社中が業界団体を取りまとめ、村全体で林業を活性化しようというワケだ。社中設立後、若い林業家も増えているという。 「500年続いた吉野林業を500年後に繋いでいくためには、山と木、そして手入れする人を育て、増やしていかなければいけません。今後はその体制づくりをしながら、吉野材の良さをPRしつつ、新商品を開発していきたいですね」(森口さん)
村役場の隣に建つ「吉野かわかみ社中」。村内の林業業界団体を取りまとめ、バックアップしている。
ダム計画を機に気づいた村の本当の価値
 歴史ある吉野林業を守り続けると同時に、紀の川吉野川の源流域である自然を守り続ける川上村。この山間の静かな村の転換点となったのが、ダム建設だ。  川上村で生まれ育ち、生家がダムの底に水没した栗山忠昭村長は、村が新たな未来を選んだ経緯について話してくれた。 「正直に言えば、ダム計画が持ち上がった時、国に『この村に人は住まない方がいい』と言われているような気がして落ち込みましたね。けれど、我々役場の職員は、国や県の方々とやり取りするうちに、気づいたのです。『我々は、水源として求められるほど豊かな場所に住んでいるのだ』と」  紀の川吉野川は暴れ川として知られ、流域では水害に悩まされていたこともあり、川上村はダムの受け入れを決める。同時に、流域にきれいな水を供給するため、「水源地の村づくり」を目指し始めた。そして、「人工林」「天然林」「コンクリートの水がめ」の三つを大切にしていくことを決めたのだ。
川上村で生まれ育ち、役場職員も務めた栗山忠昭村長。村長の生家も大滝ダムの湖底に沈んだという。
村の総面積の95%を山林が占める川上村。村の基幹産業は、現在も林業だという。
「源流の価値を広めようと、職員の発案で湖底に沈む予定の場所で『湖底サミット』を開いたり、川上と名の付く村や町が集まる『川上サミット』を開催したりしました。そして、1996年に『川上宣言』を全国に発表したのです」(栗山村長)  川上宣言とは、水源地の役割を積極的に果たして行くことを宣言する、五つの条文だ。温暖化に対する国際条約「京都議定書」が採択されたのは川上宣言の翌年の1997年だということを考えると、川上宣言がいかに先進的だったか分かるだろう。さらに、川上村では1999年から2002年にかけて広大な原生林を村として買い上げ、水源地保護に取り組んでいる。    川上村が始めた「水源地の村づくり」は、今や流域にも波及している。下流域に住む子供は源流の自然に触れ、田んぼのない川上村に住む子供が流域で田植えを経験している。  こうした流域を通じた交流をきっかけに誕生したのが、「紀の川じるし」だ。これは、紀の川吉野川流域を一つの商店街に見立て、流域の産業をブランド化するというもの。「紀の川じるし」は、自然資源を活用して課題解決を目指す事例として、平成30年度版環境白書にも紹介された。 「川の上流、中流、下流と、それぞれの地域にそれぞれの役割があると思うのです。そして、町を作るなら、水を生み出す山や川を大事にした方がいい。それに、ほったらかしにすると山は拗ねてしまうもの。きちんと間伐し、下草を刈って手入れをしてあげないといけません。『触れたらあかん』と自然をすべて聖域にするのではなく、ちょうどいい具合に付き合っていくことが大切なのです。川上村でも村内外の学校が校外学習を行っていますが、将来、源流の大切さが教科書に載り、源流での校外学習が義務付けられたらいいなと思っています」(栗山村長)  村内にある森と水の源流館ではさまざまなプログラムを実施しており、学校教育や企業の研修に利用されているほか、個人が参加できる水源地の森ツアーや川上村エコツアーなども行われている。
水の神様を祀る丹生川上神社上社より。大滝ダム建設を機に高台に移った境内からはダム湖が一望できる。
「この村にダム計画が持ち上がった当時、『ダムが出来て栄えた村はない』と言われていました。しかし、ダム計画があったからこそ、我々は村のあり方を真剣に考え、村の価値や魅力に気づき、誇りを持つことができた。今はそう思います」(栗山村長)  ダム計画を機に村のあり方を追求し、開かれた「水源地の村づくり」という新しい道。山と木、そして水を大切にする川上村のあり方は、今後ますます多くの地域や人々に影響を与えていくことになるだろう。