川と釣りと……
今回の川 福岡県/佐賀県・筑後川

幹川流路延長143km。阿蘇外輪山に源流を発し数々の支流と合わさりながら有明海に注ぐ九州最大の河川。今回は筑後平野と佐賀平野を流れる下流域が舞台。国内最大の干満差は最大5mほどにもなり、河口域にはムツゴロウやワラスボなど多くの干潟生物が棲息する。釣り人の間では1mを超える有明スズキが釣れる川としても名高い。

筑後川に伝わるエツ伝説

九州一の大河川・筑後川。福岡と佐賀の県境を流れる下流域は、有明海の潮の影響を大きく受け、長年の堆積作用で元々海だった場所に肥沃な筑紫平野が作り上げられた。川辺の大部分をコンクリートで固められた現在では想像もつかないが、昭和初期頃まではヨシ原が見渡す限り広がっていたという。流域に住む人々は、数カ所ある渡し船で、広大なヨシ原を眺めながら川風に吹かれ大河を行き来していた。この辺りには、渡し船とヨシにまつわるちょっと面白い伝説が残されている。

遠い昔、一人の行脚僧がここから筑後川を渡ろうとして船賃もなく困っていた。それを見かねた若い船頭が小舟をこいで、對岸まで渡してやったところ僧はそのお禮として「もし暮らしにお困りの時はこの魚をおとり下さい。」と言って蘆の葉を取って川の中に投げ入れた。すると、その蘆の葉は忽に一匹の魚になって夕陽に銀鱗をかがやかして水底深く消えた。

これは佐賀県佐賀市と福岡県大川市を結ぶ筑後川昇開橋のたもと、大川市側にある「えつ傳承碑」に刻まれた伝承の一部である。若い船頭の優しさに触れた僧侶は各地を旅した弘法大師(空海)であり、ヨシの葉から銀鱗輝く細長い体に姿を変えた魚こそが、今回の旅で求めた筑後川のエツである。

弘法大師が渡ったとされる渡船場跡に作られた「えつ傳承碑」。エツを型どった石碑の下にはエツ伝説が刻まれている。
えつ傳承碑の至近にある大川テラッツァ(大川観光協会)。毎年6月にはエツの食文化を伝える「えつまつり」もこの場所で開催している。大川のエツ料理を食べたければ、まずはここに足を運び情報を得たい。
観光協会が販売するエツの手拭い。激しい川潮の渦と見事なエツが描かれている。

エツは有明海を主な棲息の場とするカタクチイワシ科の海水魚だが、成熟した親魚は春から初夏にかけて筑後川をはじめ有明海に流れ込むいくつかの川に遡上し、淡水と海水の混ざり合う感潮域で産卵する。長江(揚子江)水系など一部中国大陸にも棲息するが、日本では有明海にしかおらず、主な産卵場となっている筑後川では、毎年5月1日~7月20日の間、産卵遡上する親魚を漁獲するエツ漁が行われている。

最大5mもの干満差を持つ筑後川は、かつて河口から30kmほどまでが潮の影響のある感潮域となっていて、その区間に遡上して産卵する親魚を狙ったエツ漁が行われていた。漁法は主に、の付いた小さな木船で潮の流れに乗りながら刺し網を流す「流し網漁」。現在も漁法に変わりはないが、漁場は1985年に河口から約23km地点に作られた筑後大堰までとなっている。

筑後川のエツを描いたノボリ。ヨシの葉のようで刀剣のようでもある尾の尖った独特なスタイルに目を奪われてしまう。
筑後川に流れ込む支流・花宗川。干潮時にはご覧のように船が陸に上がってしまうほど干満差が激しい。
ムツゴロウ(写真)やトビハゼなど、干上がった川底には魚やカニがたくさん見られた。

えつ傳承碑の背後に赤く聳え立つ筑後川昇開橋を歩いてみた。1935年(昭和10年)に国鉄佐賀鉄道のために建設された全長約507mの鉄橋は、列車通過時以外は船舶の運航を優先するため昇降式の可動橋として作られたという。1987年(昭和62年)に国鉄佐賀線が廃止となり、1996年(平成8年)からは遊歩道として開通し、国指定重要文化財にも指定されている。現在は日没後にライトアップされるランドマークとして、多くの観光客が訪れる。

佐賀市諸富側から鉄橋を歩く。眼下に茶色く濁った筑後川を眺めながら佐賀県と福岡県の県境を示す看板を過ぎると、巨大な赤門のような可動部に至り、その先に管理棟があった。頭上には鯉のぼりならぬ「えつのぼり」が川風を受けてたなびく。管理人さんが親切にも可動橋の昇降を見せてくれた。スイッチを入れるとひと続きだった橋が切れ、上昇していく。30秒ほどで20mほど持ち上がり、また30秒ほどかけて元の位置に戻った。

橋の上から対岸にレゴブロックで作られたような若津港の水門が見えた。かつてヨシ原が広がっていた一面には、コンクリート護岸が伸びていた。諸富側の橋のたもとには、ヨシにまつわるエツ伝説に添えられるように、人工的に設けられた小さなアシ原の帯が護岸の堤防にへばりついていた。

福岡県大川市の橋向いにある佐賀県諸岡に建てられた「徐福之像」。この地では弘法大師ではなく秦の始皇帝の命を受けて渡来した徐福がエツを生み出したとの伝説が残っている。
佐賀県側から見た筑後川昇開橋。元々は佐賀鉄道のための鉄橋だったが、今では歩いて渡れる観光名所となっている。
中央の可動橋が上がった状態。
筑後川昇開橋に掲げられた「えつのぼり」。筑後川の川風をはらみ、悠々と空を泳いでいた。
昇開橋のたもとに、ヨシの小さな群落が残されていた。広大なヨシ原は見る影もない。
対岸の大川市にある若津港。かつては博多港を上回る物流の要所だったという。可愛い三角屋根は支流・花宗川の出合いにある水門。

エツ漁を見学する

翌日は大川市の観光協会を通じて、地元の漁師さんにエツ漁を見せてもらうことになっていた。待ち合わせ場所は前日に昇開橋から見下ろした若津港。「8時に港で落ちあう」としか申し合わせておらず、現地に来て初めてその広さを知った。それもそのはず、江戸時代より廻船の中継点として栄えた若津港は、明治期になると博多港を大きく上回る規模の物流拠点となり、筑後平野で収穫された米や酒などを出荷する玄関口だったという。レゴブロック風の水門がある花宗川の出合いから下流に向かって歩く。延々と漁船を探しながら川沿いを下ると、アーチ状の新田大橋の橋脚付近に小さな船が見えた。カメラの望遠レンズで覗く。間違いない、あの船だ。稼働中に気を遣わせてはならないと手を振ることはせず、しばらくの間、遠目から漁の風景を追った。

新田大橋を背後にエツ漁をする荒木ご夫妻。網を流しながら上げ潮に乗って上流へと移動していく。
流した網を双方から手繰る。
この日は小潮だったが、それでも潮が動く時間帯にはかなりの流れが発生する。

網が入る。上げ潮に乗るように数百m移動すると、目印のブイに向かって櫓で漕ぎながら網を回収して、もうひと流し。再度数百mの距離を流すと網を引き上げ、港へと戻ってきた。今回、お世話になったのは、漁をして50年というベテラン漁師の荒木三由さんと、その奥さんのミチエさん。挨拶を済ませると、すぐ船に乗るよう促される。引き返すように港を離れた。

この道50年の荒木三由さんと妻のミチエさん。シーズンには二人三脚でエツ漁を営んでいる。

三由さんがトモ(船の後端)でエンジンと櫓で船を操船し川の流心部へ向かう。ミチエさんはミヨシ(船の先端)で網の端に付いた大きなブイを手に構えている。足元の発泡スチロール箱には、捕れたばかりのエツが数匹入れられていた。

初めて見るエツの姿は、かなり独特に思えた。全体を見るとまさにヨシの葉のように細く薄く、尾は刀剣のように尖っている。一見、タチウオのようにも見えるが、顔を見ればなるほどカタクチイワシの面影が見え、そこには鋭い牙などではなく細かいヤスリ状の歯がびっしりと並んでいる。全身を覆う銀色の円鱗もカタクチイワシのよう。そしてアンテナ状の胸ビレは深海魚のようでもあり、小さく鋭角に尖った背ビレもまた小刀のような独特な形をしている。

刺し網にかかったエツ。顔と青い背中からは、カタクチイワシにも似た雰囲気が感じられた。刀剣のように鋭く尖った銀白のウロコに包まれた魚体はタチウオともまるで異なる独特な者だった。

ミチエさんがブイを投げ入れる。それに引かれて網がスルスルと川の中へ引き出されていく。網の放出に合わせて三由さんがオモリの石を川へテンポよく放り投げていく。船とブイの間に数十メートルほどの網が広がると、そのまま潮に乗せて網を数百メートル流した。泳いできたエツが網目に突き刺さり絡め取られる仕組みだ。
「ここで水深6mほど。網の下には石がついとるけん、下に広がるんやけど、ウキがついとるぶん川底からちょっと石が浮いている感じで斜めに流れていきます」

三由さんが櫓を漕ぎながら漁について教えてくれる。
「潮が流れていれば網も動くけど、網が同じ場所にあっても魚が泳ぐけん、網を動かせばいいというわけでもなか。エツは今の時期、有明海から産卵のために大堰の少し下あたりまで川を上っていきよっとです。漁場はだいたい自分の漁港の前やけん私はここ。城島の船は城島の前、久留米の船は久留米の前。書類はなかばってん、暗黙の了解で流す場所が決まってきます。捕れ具合は年によっても違うし、天気によっても違う。雨が降らんと上(大堰近くの上流域)のほうが水がきれいになるからようかかるです。だけどあんまり雨が降ると大堰から水ばたくさん流すとですから網を流されんとです。そうなると逆に下流のほうが水がきれいになるけん、よう捕れっとです。ただ、あまり水が澄みすぎると今度は晩しかかからなくなります。晩は潮の澄んだ満月がいい。エツの他に捕れるんは、クッゾコ(シタビラメ)にグチ(イシモチ)にコノシロ、それからススキ(スズキ)とハクラ(セイゴ)、あと皆さんが『有明海のエイリアン』言うワラスボもかかる。ヒラも最近は多いかな」

10分ほどは流しただろうか。ミヨシ側のミチエさんが網をたぐり寄せていく。小さなグチや30cm以上ありそうな立派なヒラが網にかかって上がってくるが、外して川へ放ってしまう。すぐに、ひときわキラキラと輝く細長い刀剣のような魚が上がってきた。エツだ。上がってきたばかりのエツは青黒い背と虹色のウロコが印象的だった。独特なフォルムを除けばウロコや全身の雰囲気はニシンやコノシロ、サッパにも近いが、これらニシン科に属する魚に比べると、カタクチイワシ科に属するエツは、やはり顔つきがカタクチイワシに似ている。網から外すために手でつかむと大きな銀鱗がハラハラと剥がれ落ちる。バケツに入れられるとすぐに弱ってしまう。この辺りもカタクチイワシのはかなさを思わせた。

十数匹ほどまとまったところで、一度料亭に魚を卸しに行くという。卸先は大川市でエツ料理にこだわる三川屋さん。エツの鮮度が落ちないうちに手渡さねばならないという。

まずは目印となるブイを川へ放つ。
引き出される網に合わせて重石を投げ込んでいく三由さん。川を横断するように帯状の刺し網を張っていく。
木製の櫓を操る三由さん。移動には船外機を用いるが、魚を脅かさずに船の位置を調整するためには的確に櫓を操る技術が必要とされる。
長年、櫓を握り続けてきた三由さんのたくましい指。
網を張るための重石はせんべいのような円盤状をしている。
混獲されたヒラ。釣り人の間では「有明ターポン」とも呼ばれ親しまれているが、三由さんは網から外すと躊躇せず川に戻していた。
混獲されたシマフグ。当日はこのほか、グチ(イシモチ)やコノシロも網にかかった。
かかったエツを網から手際よく外す三由さん。
外したエツを見せていただいた。この日のアベレージサイズ。
この日、漁獲された最も大きなエツ。ふっくらした腹には卵を抱いているのだろうか。

エツの骨切り、そしてとれたての刺身とあらいをいただく

三川屋さんに着くと、女将の大和寿子さんが迎えてくれた。まだスタッフはおらず女将自ら包丁を手に取り、三由さんから受け取ったエツをその場で処理していく。ウロコを取り、頭を落とし、中骨を削いで三枚に下ろし、細く薄く身を削ぐように柳葉包丁を動かしていく。一連が流れるように早い。まるでスライサーにかけられたようにプリプリに引き締まった細切りの身が山になっていく。
「特に刺身とあらいにするには、捕ったばかりの鮮度が不可欠です。時間が経ってしまうと身が少しずつ柔らかくなり、包丁を入れたときに身が崩れて骨が切りづらくなってしまいます。エツは小骨の処理が味を大きく分けますから、鮮度には特にこだわっています」

骨切りする手を止めずにエツへのこだわりを話す女将さん。そして「どうせなら捕れたてを食べてもらわなくちゃね」と、削いだばかりの刺身を一盛りと、氷水にさっと通して脂を抜いたあらいを一盛り出してくれた。私にとって初めてのエツは、思いもよらぬ最高の形で目の前に現れたのだ。

漁を中断し、三川屋さんに獲れたてのエツを卸す三由さん。なによりも鮮度が優先される。
その場ですぐさまウロコを落とし、然るべき下処理が施される。
刺身とあらい用は三枚に下ろし中骨を取り除く。
無数にある小骨を断ち切るために細く包丁を入れていく。
氷水にさっと通して余分な脂を取り除く。あらいにするためには、ここまでの処理を一気に済ませておく必要があるという。
左が刺身、右が氷水に通したあらい。とても贅沢な食べ比べをすることができた。

まずは捕れてすぐの状態でしか味わえない刺身から。まとめて箸で身をすくい、醤油につけて口へ運ぶ。まず驚いたのは、これまで体感したことのない食感だ。プリプリとした身とともに、コリっとした歯応えを生む皮と骨……だろうか。とにかく歯触りと舌触りが心地よい。そして身の甘さが舌に広がった。美味い、絶品だ。氷水で締めたあらいはさらに歯ごたえが増し、心持ちさっぱりとした味わい。これも美味い。間違いなく、これまで食べたことのない味だ。
「三川屋ではこの味と食感を出すために、漁師さんから直に仕入れています。連絡が入ると、いつもは私が漁港まで受け取りにいきます。とにかく鮮度の良いうちに、あらいを取ったり、下処理の骨切りまで済ませてしまいます。漁師さんにしてみたら一度に何度も網を入れたほうが効率はいいかと思うのですが、その分、ある程度安定した値で買い取ることで、漁師さんにも三川屋とやってて良かったなと思ってもらえるようにと考えています」

三川屋の女将、大和寿子さん。説明をしながらも手を止めることはない。繰り返し繰り返し行ってきた骨切りは手が感覚を覚えているという。

三川屋さんを後にして、ミチエさんの待つ船に戻ると、もうふた流しして、午前中の漁を終えた。この日は夕方から屋形船の予約も入っているという。屋形船はエツ漁を見てもらいながら、捕れたてのエツを食べてもらう人気の観光となっているのだ。さらにはその間の午後にも船を出すという。

下船後、荒木さんのご自宅でお茶をいただいた。今年初めての甘いスイカにかぶりつき、エツの南蛮漬けと風味豊かな有明海の海苔をご馳走になった。エツはもちろん、捕れたてをあらいや刺身でも食べるが、荒木家では骨切りしたエツを油で揚げて南蛮漬けにすることが多いとのこと。漬け込んで冷蔵庫に保存しておけば、一年中エツの味を楽しめるのだという。

頭から丸ごと食べられるエツの南蛮漬けは、なんとも言えない贅沢な家庭の味だった。ミチエさんは、骨切りを義理のお母さんに教わったという。「料亭とかお店はともかく、今は骨切りできる人も少なくなっているだろうから、家庭の味からは離れてしまっているかもしれませんね」とのこと。それはとてももったいないこと……などと思うのは、外から来た者の無責任な感想なのだろう。埼玉県の吉川で食べたナマズのたたき揚げ、新潟県の村上で食べたサケの塩引きなど、当連載ではさまざまな地元の味を食べてきたが、いずれも地域の家庭の味としての食文化は先細っているように思えた。伝統を継ぐにはまず、その魚がいなければ話にならない。だがそれを欲する人がいなくなっても食文化は途絶えてしまうのだ。

今年の10月で75歳になるという三由さんは、元々有明海で乾海苔の養殖を行い、海苔のオフシーズンである5~7月にエツ漁をしていたが、今は海苔をやめ、筑後川のエツ漁を専門としている。エツ船には「中学生ぐらいから船に積んどった(乗せられていた)」と言うから、もうかれこれ50年になる。かつてのヨシ原広がる光景も知る三由さんに、筑後川の昔と今とで大きく変わったことは何かと聞いた。
「やっぱり大堰ができたけんね。砂が来んです。砂が来んときれいな水が来んですね。昔はほら、飲まるるぐらいの清か山水がそのまま砂と一緒に来よったです。水は砂で澄むから。砂がなからんと魚は育たんです」

荒木さん宅でいただいたエツの南蛮漬け。心地よい歯ごたえと噛むたびに染み出す味わい。たくさん作っていつでも食べられるよう冷蔵庫に寝かせてある。
大変香ばしい有明海苔もいただいた。元々、荒木さんご夫婦は海苔の養殖業のオフシーズンにエツ漁を行っていたという。今は手が回らなくなり海苔をやめ、夏場のエツ漁だけに専念しているという。

有明スズキを狙って筑後川へルアーを投げる

その夕方、大堰の少し下流側で、私は今回同行した当連載担当のDAIWAスタッフともにルアーをキャストした。初夏の筑後川にはシーバスアングラーの間で「エツパターン」なるビッグプラグを用いた釣り方がある。筑後川で産卵するエツをイミテートして大型のミノーを表層をフラフラと泳がせて食わせる釣りだ。ターゲットは「有明スズキ」と呼ばれる有明海固有の大型スズキ。一説には有明スズキはマルスズキとタイリクスズキとのハイブリッドとも言われており、メーターオーバーもこのエツパターンで釣り上げられているのだ。

筑後大堰。主には灌漑用水や水道用水を供給する役割を担っている。かつてエツはさらに上流まで遡上していたが、今では大堰が遡上の上限となっている。

私は当日、原因不明の肩の痛みに悩まされており、ろくにキャストすらできなかったが(健康体でも狙いの魚が釣れることは稀なのだが)、なんと同行スタッフが40cmほどのシーバスを釣り上げた。その背中には有明スズキの特徴である黒点が見事に散らばっていた。産卵遡上するエツの親魚を食べるサイズではなかったが、この魚もまた私たち釣り人にとって筑後川や有明海でしか出会えない宝物なのだ。

当連載担当のDAIWAスタッフがキャッチした40cmほどの価値ある一匹。背中には有明スズキと思われる黒点が散っていた。
短時間ながらも集中してルアーを投げ続けた末の一匹にこの表情。撮影後は「大きくなれよ」とリリースした。
ヒットルアーはショアラインシャイナーZバーティスR(上から2つ目)。