



盛岡市東端の山間部を西流して盛岡市街地で北上川と合流する一級河川。根田茂川は簗川ダムで簗川に合流する支流。ともにサケやサクラマスの産卵に適したこぶし大の礫が敷き詰められた美渓だが、2020年に湛水した簗川ダムにより、それよりも上流の簗川と根田茂川は、サケやサクラマスなど遡河性魚類の遡上が妨げられた。北上川は東北地方を約200km南流し、宮城県石巻で追波川・旧北上川を通して太平洋に注ぐ。
早朝、中津川でサケを探す
5時に宿を出て、中津川沿いを歩く。肌寒いがダウンジャケットを羽織るほどではない。中ノ橋から上流に向けて歩を進める。薄暗い群青色の空に東北電力の無線鉄塔が浮かぶ。山あいに潜り込んでいくような簗川とは異なり、中津川は盛岡市の中心街をまっすぐ貫流する街中の川だ。遊歩道は整備され、河道はきれいに草刈りされている。カルガモやアオサギも見られ、私の地元である埼玉県南部の都市近郊河川とぱっと見の印象はほとんど変わらない。だが、橋の上から見下ろすと、その違いは歴然だ。直線的な流れにはサケやサクラマスの産卵に適したこぶし大の石が敷き詰められている。
上流に向かって歩くと、ところどころにサケをモチーフとしたオブジェが飾られている。橋のそばに設置された看板には「9月末から12月初旬にかけて、毎年北上川河口からおよそ200kmの旅をしてサケがのぼり産卵する光景が見られます」とある。街の人にとってのシンボルはサクラマスよりも、やはりサケなのだろう。



上ノ橋に着いた。約400年前に南部藩主の南部利直が盛岡城の建築と同時に建立した歴史ある橋だ。過去には大水でたびたび流され、いまのものは1935年(昭和10年)にかけられたものだという。橋に飾られた玉ねぎのような青銅の擬宝珠は、国の重要美術品となっている。まだ朝が早いからだろう。今日は人通りもない。見下ろすと、川底には畳一畳分ほどの白い楕円状の跡だけが残っていた。
じつは昨日盛岡に着いてすぐ、簗川に向かう前に少しだけ上ノ橋から中津川を覗いていた。サクラマスのメスが定位し、時折川底を掘り起こす姿が観察できた。面白いことに、私が橋から下の川を覗き込んでいると、行き交う人もまた、立ち止まって橋の下を覗く。魚に詳しそうなおじさんが「これはマスだね。サケはもっと大きいから」と教えている。橋を渡る人々は、挨拶がてらサケが少ないことをお互いに軽く嘆き合う。
前夜のニュースによると、10月10日までに岩手県の河川で捕獲されたサケは561匹と、前年同時期の12%、2019~2022年の平均に比べると4%ほど。前日、訪れた簗川の盛岡河川漁協では、今年まだ一匹もサケが獲れていないという。きっとサケは来ていないのだろう。専門家の話によれば、東北太平洋沿岸の海水温が高すぎることが原因のひとつだという。例年、中津川にはサケの遡上が確認されると同時に空を泳ぐ「サケのぼり」が川辺に掲げられるが、今年はそれもない。市街の人たちにとっては、この時期には寂しい中津川の風景なのだろう。


朝露に濡れながら、河道の草地を進む。歩き始めて3kmほど、上ノ橋から上流に5つほど橋を数えたところで中津川は米内川と分かれた。ここまで3カ所でサクラマスの産卵行動を見ることができた。山あいに伸びていく米内川を少し進むと、さらに産卵環境が良くなっていく気配もあったが、あいにく雨が降ってきた。傘はなく、カメラを首から下げている。通勤・通学の時間のようで、近くのバス停に人の列ができていた。行き先を確かめる間もなくやってきたバスに飛び乗ると、あっという間に上ノ橋付近くまで連れ戻してくれた。
中心街まで戻り高台から川を撮影すると、中津川が都市河川であることがよくわかる。ビルに囲まれた川には人目を遮る木々も乏しい。数千キロもの大いなる旅路を経て戻ってきた場所が完全に人間の領域であることに、サケたちはどのような想いを抱くのだろう。
かつて北上川上流は「死の川」と呼ばれた
じつは中津川には、かつてサケがほぼ絶えていた時期がある。
中津川が合流するよりもさらに上流、北上川に注ぎ込む支流松川のさらに支流である赤川で昭和の時代に稼働した松尾鉱山(1935~1972年)による汚染により、北上川上流域は魚の棲まない「死の川」だったという歴史がある。硫黄を生成する際に発生する大量の強酸性水が流れ込んだことであらゆる魚がいなくなり、ついには酸性に強いウグイまでもが姿を消したのだ。環境省が専門家にヒアリングしてまとめた資料によると、1962年当時、赤川合流点からの支流松川と花巻までの北上川本流は魚類の無生息域であったという。岩手県各地でサケの大量斃死が相次いだ。中津川自体は鉱山による汚染を免れたが、海との連絡が絶たれたことで、サケはほぼ姿を見せなくなった。1972年に鉱山が閉鎖され、汚染水を中和する施設が稼働すると少しずつ水は良くなり、再びサケの遡上が見られるようになった。岩手日報によると1974年には多くの市民が産卵行動を確認するに至ったという。
1975年には岩手県が観光を目的としたサケの種苗放流を始め、以降今日に至るまで、主体を変えながらも断続的に種苗放流が続けられている。





圧倒的な簗川ダムを見下ろす
もう一度、根田茂川を見てみたいと思い、簗川沿いに車を走らせる。途中、簗川の下流域でサケの人工孵化放流を行なっている盛岡河川漁協の事務所に立ち寄り話を聞くと、やはりサケはまだ1匹も確認できていないという。簗川と北上川との出合いの対岸でやはり北上川に注ぐ雫石川では昨日、2匹のサケを見たという情報が入ったというが、確証は得られていないという。やはり歴史的不作なのだろう。それどころか前年の2022年にしても簗川のウケで獲れたサケのメスは3匹だけだったと聞き、愕然とする。サクラマスはポツポツと川を上っているという。
根田茂集落へのトンネルに入る手前に、集落の半分を湖底に沈めた簗川ダムの堤体がある。簗川まで上ってきたサクラマスのさらなる遡上は、すべてこの堤体に妨げられる。2年前の夏にダム湖の湖面は見ているが、その時はまだ、ダムサイトへの立ち入りは禁止されていた。
車を停め、堤体の中央までそろそろと歩き、ダムの下流側を見下ろしてみた。首の後ろがむずむずする。高所は苦手だ。垂直に切り立った堤体の下には、意外なほどすぐ近くまで簗川の流れがあった。産卵に適した流れにも見え、思わずサクラマスがいないか探してみたほどだ。もちろん堤体直下は立ち入り禁止区域だから観察はできないが、多くのサクラマスがダム直下で産卵するのではないかと感じた。それより上流の産卵場をサクラマスからすべて取り上げてしまったのだから、建設主体の県にはせめて、重要な産卵場となりうるダム下流域の環境をしっかりと保全してほしい。海から最奥の根田茂集落に戻ってくるサクラマスは、もういないのだ。海水温の上昇などにより中津川のサケが途絶えつつあるように。そしてかつては松尾鉱山で途絶えてしまったように、根田茂川のサクラマスは、簗川ダムによって失われてしまったのだ。根田茂川の周りに人々が住み着くよりも遥か昔から、悠久の時を超えて川と海を行き来してきたサクラマスの生活史は途絶えてしまったのだ。




……と、ここまで書いて、いやもしかすると根田茂川のサクラマスが失われた時代は過去にもあったかもしれないのだと思い直した。例の松尾鉱山による汚染が中津川のサケを途絶えさせたのだとすれば、「死の川」と呼ばれた北上川上流域の悪水は、簗川への遡上だって途絶えさせたことだろう。そもそも汚染された川をくぐり抜けて海に降りることすら不可能だったはずだ。根田茂川は過去にもサクラマス不在の時代があった。海洋を求めて下流に旅立った仲間は二度と戻ってはこない。そんな時代が過去にもあった。
根田茂川はいま、再びサクラマスを失った。だが今でもサクラマスになりうるヤマメは生息している。昨日はその自然産卵も見た。もしかすると簗川ダムを「近すぎる海」と見立て、そこで大型化して根田茂川に遡上する湖沼型のサクラマスが現れるのかもしれない。私はそれを見てみたい、とも思う。だがしかし、200km以上もの大河を下って大海原を旅して再び200km以上もの大河を上り、最後に「桃源郷」とも言われる山奥の美しい田園風景に帰還するという、私の大好きだった根田茂川のサクラマスの物語には終止符が打たれてしまった。それはやはり、とても寂しいことだった。
堤体でしばらく物思いに耽っていると、大粒の雨が降ってきた。いきなりのまとまった雨に、最初に根田茂を訪れた2014年を思い出していた。この雨量なら、上ってくる……かも? そんな淡い期待を抱きながら長いトンネルをくぐった。



雲間から青空、そして陽の光が射し込んだ
当たり前のことだが、サクラマスはいなかった。時折パラパラ……ザーッと降る大粒の雨、そして湿った圧しの強い風に翻弄されながら、自然に抱かれる気持ちにもなって、そのまま根田茂川の美しい玉石を眺めていた。すると突然、厚い雲が割れ、流れを覆うカツラやトチノキに強い陽の光が射し込んだ。濡れた葉がキラキラと輝き、強い風がビューッと吹いて一斉に葉を散らせた。一足先に黄色く色づいたサクラだったろうか。風が収まると途端に蒸し暑くなり、青空が広がった。一斉に白いもやが、周囲の山々から立ち昇った。


今一度、ダムの下流側で産卵するサクラマスを見てみたくなった。遡上したくても簗川ダムで行く手を阻まれそれ以上は遡上できないサクラマスたちが産卵する姿を目に留めておきたい。
思いのほかすぐに、その姿に会うことができた。複数のまとまったペアが産卵する場所に行き着いて、しばしの間、観察を楽しんだ。腹に卵を抱いたメスが河床を掘り起こす力強い音が瀬に響き渡る。その傍らでは一生を全うしたメスが横たわり虚空を見つめている。継がれた命は、ここから約200kmもの川を降り、大海原に出て、再び回帰する。2年後か3年後、旅路の途中、石巻の追波川で私の投げたスプーンを横目に見るのかもしれない。そして再び、ダム直下の簗川まで戻ってくるのだろう。彼ら(彼女ら)はもう、戸惑わないかもしれない。少なくてもダム下流の流れが清らかに保たれているならば。



