今回は、岐阜県の木曽川水系にあるダム湖の流入河川で2022年9月に行われた京都大学生態学研究センターの佐藤拓哉さんと京都大学大学院理学研究科修士課程の中西勇太さんによるフィールド調査に同行させていただいた。ダム湖と川を行き来するサツキマスの生活史や遺伝的特性を調べる今回のフィールドワークを含め、佐藤さんらの研究は、私たち釣り人がこの先も末長く自然の中で釣りを楽しむための、大切な手がかりを与えてくれるものだ。
海と川を行き来するサケ、そしてサツキマス
サケが生まれた川に産卵のために帰ってくることは、多くの人が知るところだろう。日本の川で生まれたサケは生まれるとすぐに海へ降り、北方の海を広く回遊して成長すると、生まれ故郷の川に帰ってきて卵を産み、死んでしまう。「サケ属」と呼ばれるサケの仲間には、サケの他にカラフトマス、マスノスケ(キングサーモン)、ベニザケ、ギンザケ、ニジマス、サクラマスがいて、いずれもサケ同様、海と川を行き来する習性を持っている。
今回の主役であるサツキマスもまた「サケ属」に含まれるサケの仲間だ。科学的にはサクラマスの亜種(同じ種の中の別グループ)とされている。サクラマスがロシアや中国などのユーラシア大陸沿岸にも分布するのに対し、サクラマスの亜種であるサツキマスは、日本にしかいない。サクラマスに囲まれるように、本州の東海地方以西の太平洋岸と四国、そして九州の北東部に分布している。
サケと大きく異なる点の一つは、海と川の利用の仕方だ。サケは孵化すると間もなくすべてが海に降るが、サツキマスは海に降る前に一年間以上の河川生活を行う。なかにはそのまま海に降らずに川で一生を終えるものもいる。実際、釣り人にはサツキマスが川で暮らす姿のほうが馴染み深いことだろう。河川生活期のサツキマスは「渓流の女王」とも称されるアマゴなのである。
白泡立った冷たい流れに足を浸す
「足元、気をつけてくださいね。ほなら行きましょか!」
先端に鉄の輪が付いた物干し竿のような長い棒の尻から螺旋状のコードが伸び、山仕事の背負子を思わせるゴツい電気機器へと繋がっている。もう一本、ネズミの尻尾のように水中に垂れ下がっている線はアースだろうか。空いた手にタモ網を抱え、白泡立った急流にザブンと踏み込んだ。後にはオレンジ色のライフジャケットの腰にポリバケツを二つ重ねてぶら下げ、大きな半円の「さで網」を手にしたシルエットが続く。
私も急ぎ、後を追う。目の前の結構な白泡にややひるみつつ、短パンにゲーターというウェットウエーディングスタイルで流れに入水。すぐに9月下旬の冷たい水がヒンヤリと足を包む。強い水圧を感じ、足の指に力を込める。薄暗い渓は朝から暑い雲に包まれていた、ポツポツと強く弱く雨が落ちる。水勢も強まっているのかもしれない。遅れながら後を追うと、ほどなく先を行く二人の足が止まった。追いつくとタモ網の中に小さな魚が二匹収まっていた。イワナとアマゴだ。
9月下旬、岐阜県は木曽川の支流に造られたダムに流れ込む渓流で、京都大学生態学研究センターの佐藤拓哉さんと大学院生の中西勇太さんによるサツキマス(アマゴ)の調査に2日間同行させていただいた。佐藤さんが手にする物干し竿のような器具はエレクトロフィッシャー。先端の輪から放出される微電流で魚に軽くショックを与え、一時的に感覚を失っている間にタモ網ですくう。捕らえられた魚は麻酔薬に浸され、体長や体重等の計測ののち、ウロコとアブラビレの一部をサンプリングして流れに戻す。必要なサンプル数が揃うまで、川を遡行しながらこの作業を繰り返す。タフな調査だ。
この時期、サツキマス(アマゴ)は産卵のために、ダム湖から川へ遡上してくる。冒頭、「サツキマスは海と川を行き来する」と書いたが、ダムで川が分断されれば、当然のことながらそれは叶わない。だが面白いもので、川がダムにより堰き止められると、サツキマス(アマゴ)はダム湖を海の代わりのように利用するという。川で生まれ育った魚の一部がダム湖へと降り、そこでたくさんの餌を食べて大型化し、サケのように川に遡上して産卵するのだ。このように海の代わりにダム湖で大型化したものを「降湖型サツキマス」と呼ぶ。
「海に出るサツキマスは、ほとんどが生まれて1年後の春に降海し、海で半年だけ過ごして川に戻ってくる生活史を持ちますが、ダム湖に降る降湖型サツキマスは、もっと生活史のバリエーションが豊富なことがわかっています」
現地までの車中、中西さんがダム湖と川を行き来するサツキマスについて教えてくれた。
「ダム湖の場合、1年目に湖に降る個体だけでなく、2年目に降る個体も多いことがわかっています。また、湖で複数年過ごす個体もいて、それらはかなり大型化するとも言われています」
海に降るサクラマスとサツキマスを比べると、サクラマスは約1年、海で回遊するが、サツキマスは近場の海で半年ほど回遊すると川に戻ってきてしまう。そのため一般的にサツキマスはサクラマスよりも小型だ。だが、ダム湖を利用する降湖型の場合、そうとも言い切れないという。地元の釣り人の話では、この川でも60cmを超えるサイズが珍しくはないというのだ。中西さんの話を佐藤さんが継ぐ。
「海に降るサツキマスは、1歳になる秋に下流へと降り始め、海に降りて半年で川に帰ってくる。ほとんどこれ一択です。例えば有名な長良川だと11月ぐらいに上流から降り始め、12月の終わりぐらいにはもう河口付近まで落ちている。それが5月には川に上がってきますからね。海に降るサケの仲間では分布の南限ですし、水温の関係もあって、(冷水性のサケの仲間には)このぐらいが限界なんやと思います。一方、ダムは川の上流域に造られることが多いので、ダム湖の水温は海よりも低く、夏でも過ごせるんですね。そうなると生活史を決めるオプションが一気に増えるんです。まず一年中、湖におれるようになるから、湖で夏を越して産卵期の秋に川に上がるやつが出てきます。さらに1年おれるなら2年おってもええやんとなって、湖で餌を長期間食べて巨大化するやつが出てくる。また、川で2年暮らしてから湖に行くやつも出てきます。同じ種のなかで生活史がとても多様化してくるわけです。降湖型がすぐに出てくることは国内外のサケ科魚類ではよく知られていますが、生活史の多様性がなぜ出てきて、維持されているのかはほとんど調べられていません。中西君は、それを遺伝基盤も含めて解明しようとしています。もう少し具体的に言うと、まずダム湖に降る魚と流入河川に残る魚に遺伝的違いがあるのかどうかを調べます。違いがあった場合、ダムに降る魚(降湖型サツキマス)の遺伝的な特徴と、海に降るサツキマスの遺伝的な特徴がどの程度似ているのかを、次に調べることになります。それによって、ダムに降る魚は海に降る魚と同質のものとみなすのがよいのか、海に降る魚とは似て非なるものになっているとみなすのがよいのかを知ることが、研究の大きな目標です。ダムに降るサツキマスと海に降るサツキマスが同質のものであるならば、ダムで絶たれていた海と川の連続性が回復すれば、すぐにまた海に降るサツキマスが回復すると期待できます。一方、すでに質の違う魚になっているとしたら、海と川がつながっても、短期間での回復は期待しづらいと考えられます。海に降るサツキマスは全国的に減少していますから、将来的にサツキマスを保全する上で役に立つ研究になると思っています」
さまざまな見た目、さまざまな生活史
湿った沢風に吹かれながらサンプリングが進む。現れる魚はさまざまだ。10cmちょっとのパーマークがはっきりしたアマゴは、おそらく昨年の秋に生まれたものだろう。20cmほどのアマゴのオスは、すでに黒ずんだ婚姻色に変わっていて、佐藤さんが指で腹を押すと乳のような精子が滲んだ。このように川で成熟した個体は「河川残留型」と呼ばれている。同じ魚なのに湖に降って大型化するものもいれば、川で小型のまま成熟するものもいるのだから不思議だ。真っ黒になった35cmほどの降湖型サツキマスのメスも捕れた。すでに産卵を終えたのだろう。尾ビレがボロボロに擦り切れている。メスは体を横たえて波打たせ、尾ビレで砂利底を掘って産卵床を作る。骨が見えるほどすり減った尾ビレを見ると、次世代に命を繋ぐ強い意志のようなものまで感じてしまう。
シトシトと雨が降り続くなか、調査は粛々と進められていく。佐藤さんが上流で振り向き、タモ網を掲げた。流れにかき消されて声がうまく聞き取れないが、これまでとは違う魚が捕れたのだろう。じゃぶじゃぶと流れに逆らい近くに寄ると、やや興奮気味に網の中の魚を見せてくれた。「まるでサケや!」と佐藤さん。見ると背中がピンクがかったベージュ色に染まったきれいなオスのサツキマスだった。ダークなオリーブ色をした腹側とのコントラストが実に美しい。盛り上がった背中には、この魚が元々アマゴであったことを語る鮮やかな朱点が散っていた。
「なんでお前、32cmしかないねん!」と佐藤さんが愛しげに眺めながら笑う。カギ状に曲がったアゴが突出する真っ黒い顔に、睨むような下向きの眼。隆々しい体型はサケの仲間であることを思わせるが、湖を回遊した割に体長はさほどでもなく、コンパクトにまとまっている。
「雰囲気ありますよね。でもこいつは短い期間しか回遊していないやつちゃうかな。この上のサイズはなかなか捕れないんです。釣り人の方々の話では、50cmを超えるようなやつがおるっていうし、実際に写真も見ています。もしかするとそんなやつらは深い淵の底にいて、エレクトロフィッシャーが届いていないのかもしれません。ただ、たとえば湖に2年いたとしても十分に餌がなければ育ちませんから、なにかが餌になっとるんでしょうね。ワカサギなのか、もしかすると毎年スモルト化して湖に降ってくるアマゴを食べているのか……」
「スモルト(smolt)」とは日本語で「銀化(ぎんけ)」のこと。サケの仲間は海に降る際、淡水から海水に適応するために体を変化させるが、この時に体が銀色に変わることからこれらの状態を「銀化」や「銀毛」と呼んでいる。佐藤さんら研究グループは、このスモルトについて、2021年にセンセーショナルな研究を発表している。その内容は「河川に放流されたアマゴ稚魚はサツキマスになれないのではないか?」というものだ。
アマゴは孵化した翌年の秋までに一定の大きさ(閾値サイズ)まで成長しないとスモルトにはならないことが知られている。佐藤さんらは、養殖魚のほとんどが自然の川に放しても秋までに閾値サイズに至らないことを明らかにしたのである。スモルトにならないということは海に降らないのだから、サツキマスにはなれない、というわけだ。
近年、養殖魚の放流の是非を問う研究が相次いで発表されている。放流で川に一瞬だけ魚を増やすことができても、それらは野生育ちに比べて長生きできないのではないか?という見方が主流になってきている。養殖場で守られながら育てられた魚がいきなり厳しい自然下に放たれても、どう生きていったらいいのか、わからないのかもしれない。
「ある川では、養殖魚を放流すると1週間ほどで三分の一ほどに減ってしまうことがわかっています。捕食者の影響もあるでしょうし、下流に落ちてしまうのかもしれませんが、いずれにしても多くがその場からいなくなってしまう。たとえば稚魚放流だと春(4~6月)に行うことが多いと思うのですが、その頃ってちょうど水生昆虫がいなくなり、渓流魚が食べ物を陸生昆虫に頼りはじめる時期なんです。川の周りに生きている森があれば、陸から虫が豊富に供給されますが、森がダメになっていると餌が一気に減ってしまい、養殖魚の生き残りにくさが顕在化してしまうんやと思います」
佐藤さんらはその後の研究で、実際に森の虫を模してミールワームを夏に川に投入すると、養殖場の魚でもスモルト化することを実験的に示している。
ハリガネムシとカマドウマ
無事に初日の調査を終え、中西さんが1カ月も住み込んでいる宿に戻る。夕食をとりながら佐藤さんに話の続きを聞いた。渓流魚の棲む川と森の繋がりの話だ。
「林業は森の樹木を伐採して植林するでしょ。皆伐から1年後の森から40年後の森まで、ハリガネムシとカマドウマの数を調べまくったことがあるんです。皆伐すると、やはり一回消えてしまうんです。でも20年ほど経って木が成長してくると、まずカマドウマの数が回復してきます。人工林の生産量がピークになるのは30年後ぐらいなのですが、ちょうどその頃にカマドウマの数もピークになるんですね。一方のハリガネムシも皆伐から少しずつ数を増やしていきます。カマドウマと違うのは、30年経っても40年経ってもピークを迎えず増え続けること。それだけ回復に長い時間がかかるということの裏返しなのかもしれません」
渓流魚の研究者が、なぜカマドウマ? そもそもハリガネムシってなに? こう感じた方も多いことだろう。実は佐藤さんは、世間一般的にはもしかすると、渓流魚以上に「ハリガネムシの専門家」として知られる第一人者なのだ。
「それだけハリガネムシのインパクトが強いんやと思います。ハリガネムシの研究も、渓流魚のことを知るためなんですけどね」。こう笑うが、その研究は世界的にも大きな反響をもたらした。端的に言うと「渓流魚が一年に必要なエネルギーの約6割をハリガネムシが川に運ぶ陸生昆虫に頼っていた」ことを自然下で実証したのである。
ハリガネムシはその名の通り、成虫になると針金のような細長い体を持つ寄生性の動物だ。渓流釣りをする人の中には、イワナやアマゴの口や肛門から細長い体がニョロニョロと飛び出しているさまを見たことがある人もいることだろう。とはいえ渓流魚に寄生しているわけではなく、いわばそれは「脱出の瞬間のワンシーン」なのだ。ハリガネムシが寄生するのは渓流魚の餌となる陸生昆虫なのである。
ハリガネムシを一躍有名にしたのは、寄生した宿主の脳をコントロールして、川などの水辺に「身投げ」させるという、おそろしくも驚くべき、その能力だ。水中で孵化したハリガネムシの幼虫は、カゲロウやユスリカなどの水生昆虫に取り込まれると、体の先端についたノコギリで腸を切り裂き、腹の中で「シスト」という粒状となり休眠する。宿主の水生昆虫は寄生されたまま羽化して川辺の陸地へと飛び立つ。そこで森の捕食者であるカマキリやカマドウマに食べられると、体内のハリガネムシはそのまま捕食者の体内に寄生して成長する。そして成虫になると、宿主の脳を操り、そのまま水中へと飛び込ませるのである。宿主が水中に飛び込むとハリガネムシは肛門などから脱出するが、それよりも前に渓流魚に宿主が食べられてしまうと、先に書いたようなことになる。ハリガネムシにとっては渓流魚に取り込まれてしまうのは想定外で、そこから脱出を試みていたところ、その魚が釣り人に釣られた、というわけだ。
なんとも複雑な話だが、このような生活史を持つ生き物もいる。そして、ある川ではハリガネムシが操作して水中に誘った陸生昆虫こそが渓流魚を支えるメインディッシュであることを、佐藤さんは証明した。
「大部分はカマドウマです。日中はあまり目立ちませんが、カマドウマって夜の森では圧倒的に生物量が多いんです」
この日の日中、調査の合間に佐藤さんは川の石に引っかかった落ち葉や枯れ枝に潜むハリガネムシを探して見せてくれた。こんなに簡単に見つかるものなの?と驚いた。この瞬間も暗闇の川辺には、ハリガネムシに脳をいじられたカマドウマがゾロゾロとゾンビのように歩いているのかもしれない。森と川の掟を想う。私たちが釣り上げて歓喜する渓流魚もまた、そんな底知れない森の住人なのだ。