イワナ・ヤマメの渓流釣りやアユの友釣りに多くのファンが訪れる関東随一の清流は、透き通る流れが広葉樹の張り出す下で玉石の底を洗う。源流は栃木・福島県境の帝釈山脈東端。支流を集めて南西に下り、五十里湖で湯西川と合わると、さらにその下流で川治ダム下流の鬼怒川と合流する。今回は、男鹿川を管轄するおじか・きぬ漁協のご協力を得て取材を行った。天然イワナの棲む男鹿川水系をはじめ、全国的に有名な温泉地(鬼怒川温泉・川治温泉)を流れる鬼怒川本流を含めた総延長30km以上もの広大な区画をゾーニング管理する、先進的な漁業協同組合の取り組みも合わせて紹介したい。
夏の男鹿川へ。テンカラとアユイングの2本立てを楽しむ
7月中旬、男鹿川を再訪した。アユイング(アユのルアー釣り)を一度は自分で体験してみたいと思ったこともあるが、前回きた時に、朝方のわずかな時間に歩いた沢筋の渓相が忘れられなかったからだ。それはアユイングの区間より少し上流で分かれる入山沢の支流・見通沢に設けられた「三依地区テンカラ専用C&R区間」(以下、テンカラ専用C&R区間)である。明るい広葉樹のトンネル、つるつると滑るように流れる清らかな沢水。誰もが簡単にアクセスできる林道沿いにありながら、男鹿川とその周辺の自然の深さを感じさせる魅力に満ちていた。
アユイングもさることながら、イワナとヤマメに目がない私は、どうしても一度、テンカラ専用C&R区間を体験したい。こう思い、午前中はテンカラ専用C&R区間で毛鉤を振り、午後は本流に出てアユイングを楽しもうと、2種類の釣り券を購入し、意気揚々と釣り場へ向かった。
テンカラ専用C&R区間は、入山沢との出会いから見通し沢第一堰堤までの約2km区間(2023年度より大高橋までの約4kmに延長)。2021年にスタートした日本初のテンカラ釣り専用の自然渓流釣り場として大きな注目を浴びた。放流されたイワナとヤマメに加え、元々この川で生まれ育った野生魚も多い。沿道からも魚を見ることができるほど魚影は濃く、キャッチアンドリリースの効果がうかがい知れる。
まずは最下流に入り、透明な流れでサイトフィッシングを楽しもうと、腰をかがめてそろそろと遡行し、魚の姿を探す。いるわいるわ。点々と魚が浮いている。ところがテンカラ竿を振る距離まで詰めようとする間に、サッと走って逃げてしまう。特に木々の天蓋が開けた明るい流れに差しかかると、魚は警戒心を一層高める。そこで、ふと気づく。水の透明度が高いのだ。この感覚は、栃木県内で男鹿川と透明度を競う大芦川でも体験したことがあった。日中明るくなると、透明度の高さゆえに警戒心が強まり、どうしても魚を驚かさずに距離を詰めることができない。
ルアーやフライなどの「飛び道具」ならまだしも、延べ竿で釣るテンカラだと、魚に気づかれないためのストーキングを磨くほかない。だが、これこそがテンカラ専用区ならではの妙味なのでは?とも思う。魚はたくさんいる。姿も見える。だが食わせるのが難しい。気づくと夢中になっていた。面白い。そして苦労の末に、なんとか一匹、真っ白なイワナを手にすることができた。
この一匹を機に一度沿道に上がり、一気に上流側の区間へ移動する。谷が浅いので、入渓も退渓もとても楽だ。アルファベットの記された看板で位置の目安もつけやすく、自然河川を利用した区間とはいえ、老若男女、入門者でも比較的安全に楽しめる釣り場となっていることに好感を持った。
10分ほど歩いた先で入渓し、身をかがめ気味にして、目で探さずにブラインドで毛鉤を流す。するとどうだろう。それまでの警戒心がウソであったかのように、次々とイワナとヤマメが毛鉤に襲いかかってきた。成魚放流と思わしきヤマメが釣れる一方で、この沢で生まれ育ったのではないかと思える、美しく野生味あふれるイワナも顔を出した。朝方まで降った雨がよかったのか、たまたま竿抜けだったのか。1匹釣って外したら、すぐに次の1匹が釣れるほど。全く期せずして、入れがかりを体験することができた。
おじか・きぬ漁協の積極的なゾーニング管理
おじか・きぬ漁業協同組合は、鬼怒川温泉周辺の鬼怒川本・支流にはじまり、五十里湖を経て、上流のアユイング釣り場やさらに上流の渓流・源流域に至るまで、総延長30km以上におよぶ広大な流域を管轄している。全国的に、組合員の高齢化や釣り人の減少などにより運営が立ち行かなくなる漁協も多いなか、おじか・きぬ漁協は多様性に富んだゾーニング管理を積極的に試み、幅広い層の釣り人から高い評価を得ている。
たとえば中流にある「川治地区C&R区間」は「三依地区テンカラ専用C&R区間」とともに、キャッチアンドリリースをルールとしている区間だが、釣り場の特徴は大きく異なる。どちらも「魚影の濃い釣り場で釣りを楽しみたい」というニーズは共通しているが、渓流魚の種沢(産卵場となる沢)ともなっているテンカラ専用C&R区間では、自然産卵による野生魚の再生産も期待され、野生味のあるきれいな魚を求める釣り人にも好評を得ている。一方、ダムに挟まれ砂防堰堤も点在する「川治地区C&R区間」は、一般的に自然渓流が禁漁となる冬季も釣り場として開放することで、誰にでも一年を通して楽しめる、いわば管理釣り場的な役割を果たしているとも言えるだろう。
おじか・きぬ漁協はまた、男鹿川水系に生息するイワナの天然魚を地域の宝と考え、とても大切にしていることでも知られる。テンカラ専用C&R区間のある中三依地区、そして男鹿川上流の上三依地区、源流域の横川地区には、野生味のある美しいイワナを求めるアングラーが県内外から多く訪れる。この一帯には複数の沢で、ニッコウイワナの天然魚が息づいていることが知られているのだ。今でこそ社会的に生物多様性保全の機運が高まり、イワナの原種の価値は広く認められてきたが、おじか・きぬ漁協では、水産試験場の協力を得てDNA鑑定で天然魚のいる沢を特定し、いち早くこれらを守りながら、流域全体を広く多様な釣り場として利用する管理方法へと切り替えてきた。具体的には、守るべき原種のいる沢を禁漁区としたり、隔年で釣り場として開放する休漁区と定めたりして、地域の宝であるネイティブの血筋を守っている。近年の研究によると、禁漁区で繁殖したイワナは下流へと降って釣り資源にもなっているという(「染み出し効果」と呼ばれている)。つまり、守られている天然魚は一部、釣り資源にもなっているというわけだ。
このような先進的な釣り場管理は、漁協のたゆまぬ努力とともに、釣り人に遊魚券を売って得た収入があってこそ、とも言える。逆にいえば、釣り人としては、より自分が理想とする釣り場管理をしてくれる川で釣りを楽しむことこそが、実質的な川の管理者である漁協の応援につながると言えるのではないだろうか。
テンカラ専用区の釣りが、あまりにも素晴らしかったこともあり、すっかり夢中になってしまった私は、アユイングの時間があまり残されていないことに気がついた。そしていざ、アユルアーを流れに通して思ったことは、自分がいかにアユの付き場を理解していないかということだった。渓流魚はじめ、ルアーフィッシングには随分と慣れ親しんできたつもりだったが、そのどれもがフィッシュイーターを相手にする釣りだ。ところがアユは石についたコケ(付着藻類)に口を擦り付けて削り取る(食む)魚である。餌となる小魚をフィッシュイーターが待ち伏せる場所と、アユのナワバリは、まったくの別モノであることに気がついた。
短い時間に、かなり集中して釣りをしたが、自分が釣っているポイントを信じられない釣り人ほど頼りないものはない。釣果はカジカが1匹。アユの顔を見ることすらできずに川を後にした。
ちなみに同日、私と同じように午後の3時間だけアユイングを楽しみ、7匹釣り上げた人もいる。数では友釣りにおよばずとも、1日2ケタ釣果も報告されている。アユイングはポイント探しのコツさえつかめれば、数までねらえる釣りなのだ。
終盤にもう一度!と思いきや……
釣果はともかく、広葉樹に包まれた素晴らしい清流で竿を振ることのできるアユイングをもう一度体験したい(そしてできたら1匹釣りたい)と思い、秋ただなかの10月中旬、男鹿川を再訪することにした。渓流釣りはすでに禁漁を迎えていたが、アユ釣りの期間は10月末日まで。もしかしたら産卵前の香ばしい落ちアユが狙えたりしないものかと期待して……。だが、事前に石山組合長(当時)に連絡をして話を聞くと、すでにアユは下流へと落ちてしまい、望みはほぼないという。アユイングの夏は、あっという間に過ぎ去ってしまったのだ。
それでももう一度、この時期に男鹿川を訪れたいと思った。ひとつの理由はテンカラ専用区を見るためだ。秋色に染まった渓で、キャッチアンドリリースにより残された魚たちは、産卵期を迎えているはず。時期としては、ヤマメには少し遅く、イワナには少し早いかもしれない。それでも産卵行動の一端を覗くことはできるかもしれない。そんな気持ちで車を走らせた。
イワナとヤマメのペアリングを観察
テンカラ専用区は夏よりもやや減水し、秋の始まりという装いだった。紅葉の本格シーズンはもう少し先だが、河床の砂礫には赤茶色の珪藻が付着し、沢の景色全体がくすんで見える。淵から瀬へと移行するあたりに遠くから目を凝らし、ゆっくりと少しずつ川を遡行すると、長径1mほどの白っぽい楕円が目に入る。おそらくはヤマメの産卵床だ。驚かさないように600mmの望遠レンズを使って遠方から観察してみたが、親魚はいない。どうやら産卵を終えた後のようだ。さらに上る。それらしき痕跡が点々とある。シーズン中に私たちの相手をしてくれたヤマメは、秋になり成熟して産卵したのだろう。そう思うとじんわりとする。
さらに上ると、暗く細い流れの中にペアリングするヤマメを見つけた。メスが砂礫を掘り起こす姿は見ることができなかったが、おそらくはオスとメス。そして堰堤の少し下流では、沿道からイワナのペアも見ることができた。現実的に、命を繋いでいる姿を目の当たりにしたことで、男鹿川のイワナたちが、私にはさらに愛しく思えてきた。
沢水を少し汲み、コーヒーを沸かす。これもまた、川と釣りとともにある、最高の時間なのだ。
清冽な男鹿川の水が育んだアユをいただく
「男鹿川のアユは小ぶりだけど、味と香りが濃いのが特徴。今炭火で焼くからね」。
渓流魚の産卵行動を観察した帰りに、三依地区にあるロッジ古代村に立ち寄った。すぐ裏には男鹿川が流れ、ルアーやフライフィッシングの拠点として人気の民宿だ。
出迎えてくれたのは、漁協組合員でもあるロッジ古代村の代表・塩生和敏さん。実はこの日、石山組合長の計らいで、組合員の方々が夏に釣ったアユの塩焼きを食べさせてもらったのだ。
やや婚姻色も出た飴色のヒレを持つ美しい男鹿川のアユが、炭火に炙られ、じっくりと水分を落としていく。艶やかだった皮がつっぱり、ヒレのまわりの振り塩が白く浮き出てくると、もう少し。時折落ちる脂が、ジュッと音を立てる。独特の香りが鼻をくすぐる。冗談まじりに塩生さんに「ビールもあるよ」と言われ、一瞬かなりぐらついたが、丁重にお断りし、代わりにアユが焼けるまでの間、湧水で淹れた挽きたてのコーヒーをいただくことに。その前に無垢な湧水をいっぱいグビリ。甘い。美味い。
その昔、スーパーニッカの広告に「同じ水で育ちました。」という秀逸なキャッチコピーがあったことを思い出す。川魚が描かれた古い琥珀色の図鑑の脇にロックのグラスが置かれ、整然と並んでいた図鑑のアユやイワナが、そのグラスに吸い寄せられるように集まっている。そのビジュアルはキャッチコピーとともに、ウイスキーの水が渓流魚の育つ良質な水であることを謳っていた。男鹿川のとてつもなく美味いこの水は、まさにアユやイワナを育てる水として、山あいを流れゆく。コーヒーもまた、甘くまろやかな水を感じた。
アユが焼けた。小ぶりのものは、シシャモを大きくしたほどのサイズ感で、当然のことながら頭からかぶりつく。香ばしい皮を破ると、しっかりほぐれる身肉に、ほろ苦いワタが絡み、なんとも言えない幸福感が口の中へ広がっていく。あまりに美味しすぎて、5匹もペロリと平らげてしまった。全国の聞きアユコンテストで準優勝となった味に偽りなし。男鹿川のアユを食べるために遠方からやってくる釣り人の気持ちが痛いほどよくわかった。
季節はめぐって2023年初夏。2年目を迎える男鹿川のアユイングは、7月1日に解禁となった。テンカラ釣り専用区は、休漁区とされていた見通沢第一堰堤から、さらに上流へ約2kmの延長となった。今年の夏もまた、足を運ぼう。朝はテンカラ、昼はアユイングを楽しみ、できることならば自分の釣り上げたアユを、清冽な男鹿川の水で育ったアユを食べよう。そんなことを思った。