



西に赤石山脈、北に八ヶ岳、東に秩父山地。日本を代表する山地の水を集めながら山梨県北西部を南流する清流。甲府盆地を国道20号線に沿って流れ下り笛吹川と合流し、富士川となり駿河湾に注ぐ。前編で歩いた川は標高800mほどを流れる支流。後編で釣りをした川は長野県富士見町近辺にある標高1100m前後を流れる支流。落葉広葉樹も多く、植物や野鳥観察をしながらの釣りが楽しめる。西さんは数多い釜無川の支流をひとつひとつ探り、イワナの体色の違いを楽しんでいる。
おいしいうどんを食べながら報告
毛鉤の素材となるキジバトの羽とヤママユのマユを採り渓流から上がると富士見町の「やまゆり」を訪ねた。古民家で美味しいうどんと焼きたてのパンが食べられる、西さんの行きつけだ。パンもうどんもジャムも甘味も、なんでも美味しく作ることのできる店主の内藤亜希子さんは西さんのお友達。「野遊び仲間」と言った方が近い雰囲気。薪ストーブの炊かれた店内は懐かしい匂いとともに暖かく、知らないうちに冷えていた体がほどけていく。性格の異なる猫が3匹。壁にはヤマドリの仮剥製や、カヤネズミの古巣などが飾られているが、仮剥製は西さんがプレゼントしたものだという。「仮剥製」とは鳥類研究用に作成する剥製だ。
「西くんはとても面白いんだけど、時々変な物を持ち込むので困ってます(笑)」と内藤さん。でもぜんぜん困った顔じゃない。
この日も西さんは内藤さんに見せたくて「野鳥の味」が詳細に書かれた古い書物を持ち込んでいた。なんでもツグミの肉は美味いらしい……とか、どうやって召し捕ろう……とか、ひそひそと良からぬ相談をしている。もちろん、空想上の遊び。西さんは鳥の専門家であり、知識欲はどこまでも広く深い。料理の他に絵もデザインもする芸術肌の内藤さんは、西さんのあらゆる方向に伸びていく知的好奇心の枝葉をともに楽しんでいる。たとえばふたりの試みは、ほとんど泥だけで巣を作るイワツバメに習っての泥の巣作りだったり、塩化物泉(塩分を含む温泉水)からのミネラルソルトを煮沸抽出してみたり……。
アンズのほのかな甘みが舌に香るゼリーをいただきながら、「今度、ウワミズザクラの実の甘さだけで作る杏仁豆腐をやってみたいんだよねー」なんて話を聞く。杏仁豆腐の杏仁とはアンズの種だが、その香りに似たウワミズザクラは「アンニンゴ」と呼ばれている。さらには針葉樹の香りを抽出して作るアロマも……と、話は尽きない。
内藤さんは、野鳥観察こそ西さんと一緒に楽しんでいるが、釣りは同行したことがないのだという。西さんに連れていってもらえばいいのにと聞くと「そこはなんだか西くんの聖域のような気がする。私は釣ってきてもらった魚が食べられればいいかな(笑)」と。











2月27日、氷点下10℃の川を歩く

西さんから「アオシギを観た」と連絡をもらい、渓流釣り解禁直前の2月27日に、再び笛吹川水系の沢を歩いた。待ち合わせ場所に到着して車のドアを開けると、ノドが張り付いてしまうような冷気に包まれた。朝8時だというのに気温はなんとマイナス10℃。淵には氷が張り、凍てついた水しぶきが作り出す見慣れない造形が別世界へと誘う。



「この冬、アオシギがいそうな沢にひとつずつ入って確認してみたんです。そうしたらアオシギがいる川の勾配や、川辺に積もる落ち葉など大まかなロケーションがわかってきました」
アオシギがいることがわかっている渓流を西さんの後について歩きながら、この場所にたどり着くまでの長い経緯を聞く。
「いる場所に連れていってもらうだけじゃ、その鳥の居場所をわかったことにはならないんです。いない場所にどれだけ足を運んだかが大切でして」と西さん。ご自身に向けて語った言葉だったが、恩恵を存分いただいている私は少し照れくさい気になりながら「でも、釣りも同じだな……」なんてことを思う。
アオシギは背景に溶け込む保護色で、おまけに警戒している時は微動だにしないから、すぐ目の前にいてもわからない。なにせ西さんですら、止まった状態のアオシギを観察したことがないというのだから……。それでも事前確認のおかげもあって、久しぶりにアオシギを観ることができた。飛び立ったお尻を三回。それでもだいたいの大きさや色、飛び方など、これからも探していくうえでとても役に立つ経験をさせてもらった。




お尻だけでも私は満足したが、西さんは止まった姿が見たかっただろう。でも、それは釣りでいう「釣果」と同じで、あればもろんうれしいが、乏しくてもその釣りが物足りないというわけでもない……という雰囲気にとても安らぐ。渓流の自然は視点を増やせば増やすほどに奥深い。少し見方を変えたりきっかけを得ることで、あらゆるものが物語性を帯びてくる。この日は足元の雪上に落ちていた黄色いフンを入口としたヒレンジャクとヤドリギの物語を、西さんの知識を借りて読むことができた。


「ヤドリギのある川はヒレンジャクに会えるが楽しみです。ヒレンジャクはヤドリギの実が大好きで、今の時期はほとんどそればかりを食べて生きています。フンにはヤドリギの種子が含まれていて、種子散布の手伝いをしていることになるのですが、この雪の上に落ちてしまった種子は失敗ですね」
ヤドリギはハンノキなど特定の広葉樹の枝に寄生する植物だから、種子が地面に落ちてしまったら発芽できない。そこが雪の上だろうが土の上だろうがそこでお終いだ。上手い具合に宿主となる木の枝にフンが落ちることが、その種にとって生き延びる条件となる。日照時間も重要なようで、せっかく枝に取り付いても、ある程度の日当たりがなければ成長することはできないという。
それにしても、そんなに上手い具合に枝にフンが落ちて種がついたままになどなるものなのだろうか……と思っていたら、ヒレンジャクが頭上のヤドリキに姿を現した。望遠レンズでその歌舞伎役者のような派手な顔をまじまじと眺めていると、なんとフンをしはじめた。そのフンを見て納得。大きくうなづかずにはいられなかった。粘り気のあるフンが糸を引いてお尻にヤドリギの種子が数珠つなぎでぶら下がったままなのだ。この粘着性は、ヤドリギの戦略なのだろうか。それともヒレンジャクはいつもこんなキレの悪いフンをしているのだろうか。おそらくは前者だろう。
ヒレンジャクの澄ました顔と、お尻についたままのフンとのアンバランスが可笑しくて笑ってしまう。自然界の生き物同士の関係性は、なんて上手くできているのだろう。


拾った鳥の羽で毛鉤を巻く

この日もやまゆりへ。うどんと、食後には、ほっかほかの湯気立つ白玉を乗せたあんみつをいただきながら、今日の川歩きについての報告をする。話をする西さんも、話を聞く内藤さんも、とても楽しそうだ。私もヒレンジャクとヤドリギの物語を昂奮しながら話し込んでしまった。

食事をとったあと、やまゆりの一画で西さんに毛鉤を巻いてもらう。マテリアルは1月の川歩き(前編参照)で拾ったキジバトの羽。スレッド(巻き糸)は同じ日に採取したヤママユのマユから紡ぐ。





西さんはバイスなど道具はほとんど使わずに、手巻きで毛鉤を巻いていく。釣りをしていて現場で拾った鳥の羽やマユを用いて、その場で巻いて釣る。そんな地産地消?型のテンカラ釣りが理想だという。もちろん、必ずそうする、というのではなく、あくまでも理想で、あくまでも遊び。
「私の場合、鳥の羽を探しているのも釣りをしているのも似た感覚で楽しんでいます。自然と植生にも目が行きますし、釣れたイワナを、そこで鳴いていた鳥や生えていた木と重ねて記憶しているんですよね」
それでも釣りをしている時は、魚と向き合っている時間も多いので楽だという。竿を持たない川歩きだと、興味や観察の幅が広がりすぎて、自然から得ようとする情報が多くなりすぎて忙しなくなってしまうこともあるのだという。確かに西さんと歩いていると、足元のフンも気になり、目の前の岩陰にクルミが貯められていないか気になり、鳥が鳴けば気になり、木肌に傷がついていれば気になり……と、気になりごとが多くなりすぎて、ついつい歩みが遅れてしまう。自然はすべてがホンモノで奥が深いものだから、知れば知るだけ、わからなくなることも多くなる。視点がひとつ増えるだけで、見える風景もがらりと変わる。
とある木に止まった鳥が飛び立つ際に一枚の羽を落とし、それがひらひらと空を舞い、水面にポトリと着いた。それを好物の昆虫と勘違いしたイワナが大きな口を開けてガバリと飲みこむ……。
川の流れる森には、こんな風景が、いくつもあるに違いない。











3月6日、解禁。そして釣りへ……

長野県の渓流が解禁して6日目となる3月6日、標高1000mを超す釜無川水系の小沢を西さんと歩いた。私はカメラ、そして西さんはテンカラロッドを携え、今期はじめてのイワナを求めた。
西さんのGPSによると入渓地点の高度は1080m。ここ数日、暖かな陽気もあったが、前日は低気圧が通過して雪がパラリと降った。
富士見町周辺の釜無川水系は西さんのホームだから、あらゆる沢を歩いて、どこにどんなイワナがどのぐらいいるか、本来ならばおおよその目星はついているエリアだ。だが今年は、本州の多くの渓流がそうであるように、釜無川水系でも昨年の台風19号による爪痕はかなり大きいようで、入渓点付近には河川修復の工事が入っていた。




林道を1時間ほど歩き、遡行する支流の入口に着いた。心配していた台風による影響は、そこまでひどくはなかった。冬のアオシギ探しで訪れていた沢は元々水量も少なめで台風の影響もほとんど感じられなかったが、イワナを釣ろうとする沢だとすると……と少しは覚悟していたのでホッとする。自然はいつだって、そこに赴き、自分の目で確かめなければわからない。尾根をひとつ越えれば、また景色はガラリと変わるのだろう。そして自分の目もまた、時とともに変化する。冬に西さんと竿を持たずにアオシギを探した川歩きが、自分の目にどのような変化を及ぼしたのだろう。





空気清らかな青い空の半日、入渓点より100mほど高度を稼いで退渓した。その間に花崗岩質の砂礫に溶け込むイワナを一匹釣った。猛禽に襲われ命を落としたキジバトの羽を虫と見誤り食ってきた一匹だ。100mほどの高度差で、植生はどんな風に移り変ったのだろう。気付けばカラマツやゴヨウマツに囲まれる風景に囲まれていた。竿をしまった西さんがGPSを見ながら尾根へのルートを見定め、登り始めた。シーズン初めの慣れない遡行で息が上がっていたこともあるが、前を行く西さんのザックと自分の足元ばかり見ているうちに、テンやシカ、それにクマの痕跡が残るミズナラとブナの一帯を通り過ぎ、気づけば薄く雪の積もる林道にまっすぐ伸びるキツネの足跡を、延々とたどっていた。
まるで旅路の車窓から見える、流れゆく景色のような、全体のイメージだけが心に残る川歩き。見過ごした細部をもう一度味わいたいと思いながら、時をまたいできたような、こんな川と釣りも、いいものだなと思った。





