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川と釣りと……
今月の川 長野・山梨県釜無川水系

西に赤石山脈、北に八ヶ岳、東に秩父山地。日本を代表する山地の水を集めながら山梨県北西部を南流する清流。甲府盆地を国道20号線に沿って流れ下り笛吹川と合流し、富士川となり駿河湾に注ぐ。前編で歩いた川は標高800mほどを流れる支流。後編で釣りをした川は長野県富士見町近辺にある標高1100m前後を流れる支流。落葉広葉樹も多く、植物や野鳥観察をしながらの釣りが楽しめる。西さんは数多い釜無川の支流をひとつひとつ探り、イワナの体色の違いを楽しんでいる。

西 教生という釣り人を長野県富士見町付近の釜無川水系に訪ねた。

西さんは私が出版している渓流釣りの雑誌『RIVER-WALK』のVol.2とVol.3にもご寄稿いただいていて、その際のタイトルはそれぞれ「鳥と渓をつなぐ毛鉤釣り~日本産鳥類の羽で毛鉤を巻く(Vol.2)」、「拾い、紡ぎ、巻く。自然素材で毛鉤を作る(Vol.3)」である。これだけでも西さんが、人とはちょっと変わった釣りを楽しまれていることがわかるだろう。まずはその説明からしよう。

にし・のりお 三重県生まれ。都留文科大学非常勤講師。イワツバメやホシガラスなどの生態を研究。生まれ育った大杉谷で幼少の頃から渓流釣りに親しんでいる。テンカラで様々な沢の源流イワナをねらい、それらの違いを感じるのが好き

西さんが楽しまれている釣りはテンカラで、狙っているのは主に源流域のイワナ。そして使う毛鉤のマテリアル(素材)には、基本的に野外で拾った野鳥の羽を用いている。『RIVER-WALK』のVol.2では、さまざまな鳥の羽を使い試行錯誤しながらベターを求めていく過程を紹介してもらった。キジやヤマドリはもちろん、スズメ、カワラヒワ、ハクセキレイ、マガモ、キジバト、ヒヨドリなど身近に見られる鳥からカケス、フクロウなど渓流域の鳥まで様々な羽を巻いた毛鉤を披露してくれた。Vol.3では、その手作りの遊び心をさらに飛躍させ、毛鉤のスレッド(巻き糸)も野外採取で手に入れた天然素材にこだわってみようと、カラムシやヤママユから繊維を紡ぎ、巻いてみせてくれた。

一見、奇抜な演出に見えるかもしれない。だが西さんと川を歩けば、それが演出などとはほど遠い、どこまでも広がる遊び心のほんの一片であることがわかる。それは自然に分け入り理解を深めようとする気持ちの、僅かながらの発露にすぎないのだ。

1月24日、鳥の羽を探して川を歩く

ハリエンジュに刺されたカエル。モズのハヤニエには諸説あるが、最近の説ではオスがさえずる際に役に立つスタミナ食として利用されているとか……。

富士川の一支流である釜無川水系の小支流を西さんと歩いたのは、禁漁期のど真ん中とも言える1月24日。当然、竿は持たず、のんびりとカメラ片手に川を遡行した。名目は解禁後の毛鉤釣りに用いる素材拾い。だが、しゃにむに探すというよりは、西さんの視線を借りて川を歩き、その風景に溶け込む自然の事象に思いを馳せる……といったところ。

歩きはじめて早々、西さんは林道に繁茂するトゲだらけのハリエンジュにモズのハヤニエを見つけた。さらに冬枯れた木の枝の樹皮がずるりと剥かれているのを見つける。

「これはサルのしわざですね。よほど食べる物がないのでしょうか」と西さん。

直後、裏付けるようにフンを見つけた。

サルに樹皮を剥かれた枝。周辺を見るとあちらこちら、剥かれて白くなっている枝を見つける。一度、この視覚情報をインプットすると、かなり遠目にもサルの痕跡を感じることができる。
人糞にも似たサルのフン。この日は、アスファルトや大岩の上など、比較的開けた場所に見つけることができた。

水量の乏しい川辺を見ながら落ち葉の積もった斜面を歩く。普段なら白銀の風景も、今年は暖冬の影響で雪の気配もない。数十メートル先に目を凝らしながら、西さんの後を追う。実はもうひとつ目的があり、それはこの季節にしか出会えないアオシギを探すことだ。

アオシギは北方から越冬のために日本に飛来する冬鳥で、英名はSolitary Snipe。直訳すれば「孤独なスナイプ」。スナイプとはジシギ類のことで、狙撃手のことを指すスナイパー(Sniper)は、動かず目立たずジグザグに飛びながら逃げるジシギ類を狙い撃てる名手、という意味だ。アオシギはその名の通り、たった一羽で小さな沢に降り立ち、そこで水生昆虫をついばみながらひと冬を越す。そんなアオシギにシンパシーを感じ、ここ2年ほどひとりで禁漁期間である冬の川に観察に行っているのだが、もちろん出会えたことはない。西さんでも飛び立つ前の姿を見つけたことはないという。

ニーブーツで歩ける範囲のライトな遡行。それでも見どころは無限にある。たとえば足元の岩の上にあるカワネズミのフンとか……。

自然観察に慣れているかどうかの大きな違いは、視点の注ぎ方にあるのではないだろうか。同じ景色を見ていても、そこに意味を見いだせるかどうかは経験と知識がモノを言う。例えばアオシギを探して遠くを見ている私には、近くの変化はまるで目に入っていないのだろう。西さんに教えられ、ほぼ足元にあるアカネズミの食事場と、目的だった鳥の羽の存在に気づいた。

斜面に散らばっていた鳥の羽。西さんいわく「オオタカに襲われたキジバトでしょう」。そこにあるとわかって見れば見つけることはできるが、良くなじむ保護色だけに意識していなければ素通りしてしまうだろう。
毛鉤用に食痕から使えそうな羽を拾う。猛禽がクチバシでキジバトの体からむしった羽だ。腹の肉と内臓は食べられ、後に残された残骸はタヌキやテンが持っていくのだろう。
キジバトのサイズなら翼の「雨覆い」という部位あたりが使いやすいとのこと。実績もある。このぐらいでゆうに10本は巻ける。

西さんが毛鉤用に鳥の羽を得ている機会は大きくはふたつ。ひとつはこのキジバトのように猛禽に襲われた食痕からいただく場合。もうひとつはロードキル(車道での轢死や衝突死)により命を絶たれた鳥からだ。さらに使い終わった古い巣からも巣材である羽やシカの毛などが得られるし、ねぐらの下に落ちている羽を拾うこともある。そして状態の良い死骸は持ち帰り、仮剥製として保管する。西さんは野鳥の研究者、フィールドワーカーなのだ。

堰堤に開いた穴にカワガラスの古い巣を探す。

渓流釣りは川の中のイワナやヤマメを相手にする遊びだから、水の中の生き物に注意を払うのは当たり前のことだけれども、同じ標高に生息する鳥やケモノ、昆虫、それに樹木などの植生はどれぐらい気にしているだろうか。心地よい風景の構成物として意識することは多いかもしれないが、例えば鳥と樹木のような関係を考えることは少ないような気がする。

鳥と樹木の結びつきは強い。鳥にとって木とは、巣をかける場所であり、ねぐらであり、エサとなる虫を摂る場所でもある。対して木にしてみれば、鳥は何と言っても種子散布の功労者だ。実を食べてもらい、フンとして種子を遠方に撒いてもらったり、クチバシでくわえて運んでもらったりもする。Aという種がBという種と相互共生の関係を持つケースもあるだろうが、自然の成り立ちは複雑だから、AがBを利用して、BはCを必要して、CはDを、DはEを……というように網目のように繋がっていく。食物連鎖や生息場の提供、そのほか諸々。そして実際のところ、これは鳥と木に限らない。その環境に棲むケモノや虫や、コケやキノコや、もちろん魚やその他の水生生物などなど、ありとあらゆる生き物が繋がって、その場所ならではの生態系を作りだしている。そんなことを意識する入口として、その場所を動かない木と大空を飛び回る鳥との関係を意識することは、とても有効なのではないだろうか。鳥の羽を巻いて水生や陸生の昆虫を模した毛鉤で魚を釣る釣り人は、果たしてこの生態系に分け入らせてもらえるものだろうか。

ホコリタケ。開口した穴から胞子がほこりのように飛び出す。食用や薬用としても利用されている。
単葉で冬緑性のシダ「オシャクジデンダ」。山梨県では準絶滅危惧種。

落ち葉が積もる遠目の川原にアオシギを探し、足元に鳥の羽(食痕)を探しながら、もうひとつ葉の落ちた枝に探しているものがあった。それはヤママユのマユである。

釣り糸はその昔「テグス(天蚕)」が用いられたが、それこそヤママユの仲間であるテグスサンという蛾の絹糸腺(糸を作る器官)から作られていた(ナイロンラインをテグスと呼ぶのはその名残)。だが何も毛虫の体から取り出さなくてもマユをほどけば細くしなやかで強い糸を紡ぐことができる。西さんはヤママユのマユをほどいて糸を紡ぎ、それを毛鉤に羽を巻くスレッド(巻き糸)として利用している。

ほどなくヤママユのマユは、見つかった。

枝にぶら下がっているヤママユは薄いグリーン。
右がヤママユ、左はウスタビガのマユ。上部が開き、下部には水抜き用(?)の穴も開いたポシェットのようなウスタビガのマユは芸術品だが硬くて糸は紡げない。

一度、マユを見つけると、その後は驚くほど簡単に見つかるようになる。

「サーチングイメージができあがるからなんです。つまり何回か確認をすることで、自分の中に〝ヤママユを探す目〟ができあがったというわけです」

サーチングイメージ、和訳すると「探索像」。自然観察に長けた人は、実に豊富なサーチングイメージを持っている、というわけだ。

ある程度遡行した所で一度林道へと上がると、盛り土が崩れないように木を積んで作られた擁壁の隙間に、西さんがオニグルミの実を見つけた。

「アカネズミの食事場です。アカネズミはオニグルミの実を安全な場所に運んでから食べるのですが、人工物が利用されているのはうれしいですね」

そういってうれしそうに写真を撮っている。隙間に詰め込まれていたクルミにはちゃんとネズミがかじった穴が開いていた。見ると近くにはちゃんとクルミの木があって、そこから離れると隙間に詰められたクルミの数も減っていく。ネズミなりにちゃんと効率のよい場所を選んで利用しているのがよくわかりうれしくなる。

木が積まれて作られた擁壁は苔むし、隙間からは草が生え、自然になじんだ状態に還っていた。
積み上げられた木と木の間に詰め込まれたオニグルミ。ここは巣ではなく食事場だろうとのこと。確かにその先に続く深い穴は見当たらなかった。

「人工物を作るにしても、こういう物にしたいんですよね。人間が作ったものが野生動物に自然に利用されているのっていいじゃないですか。うん、こういうのっていいな」

あまりに絶賛するものだから、なんだか可笑しくなってしまったが、今思えば少し西さんの気持ちがわかるような気がする。人が自然の中に入っていく時、熱心な観察者ほど、そこにいる生き物たちがお互いに利用したり利用されたりする関係性を強く意識するのではないだろうか。そして相手から奪う物と相手に差し出す物との足し引きが、結局はイーブンに納まっているような感覚を得るのではないか。一方、釣り人を含め、そこに分け入る人間は、果たしてイーブンな存在と言えるだろうか。奪う物ばかりで差し出す物が見当たらない。そんな不安にかられてしまう……と思うのは考え過ぎだろうか。西さんが人工物である擁壁をアカネズミが利用してくれたことに、これほどまでに喜ぶのには、そんな思想があるんじゃないかと、今改めて思う。

シカのフン。
イノシシの掘り痕。
コケなどを巣材として作られた鳥の古巣もあった。
テンの爪痕。

気付くと渓は動物たちの気配に満ちていた。シカやイノシシのケモノ道を感じ、木をよじ登ったテンの爪痕の感覚から、しなやかで長い体がイメージされた。ある立ち枯れた木に、大きな穴が開き、その中に枯葉が詰め込まれていた。

「穴を開けたおはアカゲラかコゲラ。中に枯葉が詰まっているのはそこを巣として利用している動物がいるからです。おそらくはヒメネズミ、もしくはヤマネか……」

そう、このような関係性もある。虫を捕るため、もしくは巣のために掘ったキツツキの穴が放棄されたのちに他の動物に利用される。実は自然界にはこんなケースがとても多いのだという。

ぼんやりと見ていた木立をちょこちょこっと何かが動いた。コゲラだ。渓を釣りながら時折聞いている、やさしいドラミング。なんだか釣りが無性にしたくなってきた。

岩陰に見つけたアカネズミの食事場。そこには穴を開けられた大量のクルミが置かれていた。サーチングイメージ。アカネズミの目。探索像をひとつひとつ増やしていこう。
枯葉が詰め込まれていたウロ(木にできた穴)。あらゆる動物たちがこの森を利用している。
器用に垂直の幹に止まるコゲラ。イワナ釣りの友だ。