



東の江戸川、西の中川という大河川に挟まれた吉川市の中央を南北に流れる人工河川。江戸時代に幕府管轄の二郷半領(現在の吉川市と三郷市周辺)で広大な二郷半沼を干拓して新田とした際に掘削された用水路。市内を南流して、並走する第二大場川と葛飾区の水元公園で合流して中川へと注ぐ。古くから稲作が行われていた吉川市は江戸時代の大規模新田開拓により、江戸への年貢米を生産する米どころとして栄えた。現在も田んぼの脇を通る大場川は中川や江戸川とつながっており、春になるとナマズやコイが本流・支流を通じて市内のいたるところに入り込んでくる。
創業400年の老舗料亭で、ナマズ料理を食す
現在、吉川市内には3軒のナマズ料理を出す料亭がある。いずれも市の西方、平沼地区の中川・吉川橋付近にある「糀家」「福寿家」「ますや」の3軒だ。かつて中川の舟運でにぎわい、吉川の食文化を育んだ川魚料理店が並んだ地。また吉川橋は千住から三郷、吉川、野田を経て茨城県の古河市へと通じる「下妻道」も通り、古くから旅路や交通の要所となっていたという。今回は中でも最も古くからある、なんと創業400年の糀家を訪ね、念願のナマズ料理を堪能しながら十六代目当主となる斉藤忠行さんにお話を伺った。





帝国データバンク調べによると、糀家の創業は1620年(元和6年)。なんと関ケ原の戦い(1600年)の20年後だ。「もう少し前の江戸幕府が始まる頃、関ケ原の戦いのあたりの創業だと言い伝えらえていたんですけどね」と斎藤さん。データバンク発表を基準としたとしても、今年でちょうど400年となる。前編でも触れたが、元々ナマズは関東以北には生息しておらず、稲作とともに分布域を広げ、利根川で姿が見られるようになったのは江戸時代中期の享保の年間(1716~1736年)だったという説が有力だ。となれば、創業当初は川魚料理店と言えどもナマズは扱っていなかったことになる。斉藤さんいわく、当時は米や味噌を扱い、川魚料理や宿の提供もしながら土倉(中世の金融業者で現在の質屋のようなもの)も行っていたという。400年前の時代、この地にナマズはいなかったとすると、どこかのタイミングで「川魚料理のニューフェイス」なんて呼ばれてナマズがもてはやされた時代があったはずだが、そのような話を聞くことはできなかった。確かなことは、ナマズはいつしか吉川の川魚料理に加わり、現在ではまぎれもない「主役」となっていることだ。



「川魚(かわうお)料理といえばコイ、ウナギ、ドジョウそしてナマズですが、ナマズを食べられるところはそんなに多くないでしょう。吉川では昔からナマズがよく獲れましたので、家庭でもよく食べる魚でした。私もこの店の後ろにある吉川小学校に通っていた頃はよく釣りましたよ」。
現在、72歳の斉藤さんは1947年(昭和22年)生まれ。その頃はまだ中川の水もきれいで、カエルやザリガニのむき身をエサにしてはナマズを釣って食べていたという。昭和40年頃から中川の水質悪化が進むにつれて、川や水路で獲れたナマズを家庭で食べる文化は少しずつ姿を消していったが、それまでは天ぷらに「すっぽん煮」そして「タタキ」と呼ばれる料理で親しまれていた。
「なまずづくし」をいただく
話をお聞きしていると、いよいよ「なまずづくし」が運ばれてきた。刺身にマリネ、天ぷら、照り焼きに加え、煮たナマズの卵や、練り物を揚げたもの、肉団子の入った味噌汁など、さまざまな料理が並べられていく。斉藤さんにご説明をいただきながら、その味を確かめていった。

まずは卵の煮付けを口に運ぶ。甘辛く煮た卵は、たらこにも似ているが粒はやや大きく、強い食感だ。「一粒一粒が『俺はナマズだー!』と主張しているでしょう(笑)」と斉藤さん。うんうんナマズらしい味だ……と感動の入口。続けて食べてみた刺身はもみじおろしで。「これがナマズか?」と意外にも感じる淡泊で上品で繊細な味わい。刺身はさばきたての活魚を用いているとのことで、薄く引かれた透き通る肉が新鮮そのものの歯ごたえを返してくれる。冷たい日本酒と合わせたかったが、この日はノンアルコールビールをグビリ。……自然と顔がほころんでしまう。
「吉川市は地方創生で『なまずの里』として町おこしをしましたが、その時に市が農家の人に依頼して始められたのが市内でのナマズ養殖です。それにより、これまでは難しかったお刺身をお客様に提供することができるようになったんです」。
続けて生野菜とあえたマリネ。バーナーであぶられたプリプリとした刺身用の身肉からうまみがじゅわっと沁みだしてくる。「女性のお客様のご要望に応える形でサラダの代わりにと考案しました」と斉藤さん。さらに天ぷら、そして白飯と肉団子の味噌汁をともにいただき舌鼓を打つ。





なまずづくしの中川コースは7種類のナマズ料理を楽しめるが、ここまで5品紹介した。そのうち天ぷらは、昔から吉川の家庭料理としても広く食べられてきたものだが、残りの2品もこの地の「ふるさとの味」として、長い間、親しまれてきたものだ。
まずはナマズの甘辛いタレがとても美味しい照り焼き。「これは、ここらへんでは昔『すっぽん煮』と呼んでいたもので、筒切りにしたものをみりんと醤油としょうがで甘辛く煮たものですが、それだと小骨も多いので、店で出す時はこのように切り身にして骨も取り除いています。実際に(亀の)スッポンをこのように煮ていたわけではないんですけどね。今ではわかりやすく『照り焼き』と言って出しています」と斉藤さん。糀家の照り焼きは、とにかくタレが美味い。そのタレを一身にまとい照りのでたナマズの身はとてもしっとりとジューシーだ。ただ、皮は硬い。「これ、皮も食べられますか?」と聞いた瞬間に思わず心の中で苦笑いした。吉川ではナマズはアンコウのように捨てる部位のない魚なのだ。何を今さら……。そんな私に斉藤さんは「嚙めば噛むほど味が出ますよ」と笑顔で答えてくれた。

「タタキ」は吉川のソウルフードだ
なまずづくしで最後に紹介するのは「タタキ揚げ」だ。これは上にも書いた「タタキ」と同じものだが、糀家では「タタキ揚げ」としてメニューに載せている。
「タタキだと、アジのタタキを想像する人が多く生食と勘違いされるので、当店ではタタキ揚げと呼んでいます。ナマズをさばくと骨や大きな頭が残るものですから、それを昔は菜切り包丁とかで細かくなるまで叩き、そこにショウガとかお味噌、卵、小麦粉を入れて練って揚げたものとなります。吉川だと昔から当たり前のようにあるものでしたが、他の地域だとナマズ料理はあってもタタキ揚げはないみたいです。昔は包丁で叩いていた時代がありましたが、扱う量が多いのと、まな板の木屑が入ったりすると衛生上も良くないので、今では機械にかけてミンチにしています」

「メニューに加えた頃は、骨が口に当たらないほうがいいだろうと思って、ミキサーで二度挽きして骨が気にならないほど細かくして滑らかな食感にしていたんです」と斉藤さん。ところがある日、地元の農家の人たちが4~5人で食べに来た時にこう言われたという。
「糀家さん、おたくのナマズのタタキは吉川のと違う。柔らかすぎて口に骨がひとつもあたらないって言うんです(笑)。プツプツとした骨の食感がないと本来のナマズの味にはならないと……」
そんな話を伺いながら「タタキ揚げ」を口に入れてみた。モチッとした弾力を感じながら咀嚼を進めると、ガチッと歯に骨が当たった。ツプッとそれを歯ですりつぶす。レモンの酸味とショウガの香りがフワッと来て、揚げたての香ばしさが鼻を通る。同時に食感は「カリッ」と「モチッ」と「ツプッ」の三重奏。いきなり説明もなく食べたなら、確かに少し驚くほどの存在感が骨粒にはある。だがゆっくりと骨をすりつぶしながら食べ進めていくと、言いようのない満足感に満たされてきた。
なんというか、ナマズの力強い存在そのものなのだ。
「農家の人が集まるとね、タタキは話題になるわけですよ。みんな味が違うから。うちは山椒を入れているとか、うちはショウガをたっぷり刻んで入れているとかね。ようは自慢話です。吉川の場合、ナマズのタタキの話で盛り上がるんですよね」
糀家ではゴボウも入れているという。香ばしさの元はこれだろうか? それにしても原稿を書くためにパソコンのキーボードを叩いている今も、私の舌とアゴはタタキ揚げを求めている。
ナマズのタタキは吉川のソウルフードだ。吉川に行ったなら、ぜひタタキ揚げを食べてほしい。釣るにしても見るにしてもナマズという魚が好きなあなたならば、ぜひタタキ揚げを食べるために吉川へと足を運んでほしい。絶対に後悔はしないはずだから。




ナマズを見たことのない人もいる
なまずづくしの美味しさも堪能し、最後に「吉川の人にとってナマズはどのような魚でしょうか?」と斎藤さんに聞いてみた。すると少し意外な、でもよく考えるとその通りとも思える答えが返ってきた。
「そうですね……。吉川の人と言っても新しい人がどんどん入ってきていますから。ナマズを見たことがないって人も多いのではないでしょうか。『なまずの里』としてそれではまずいだろうということで、料理人仲間で毎年、小学校3年生にナマズについての教室を行っています。生きたナマズをバケツで持っていって、みんなの前でそれをさばいて見せるんです。また、ナマズのタタキ揚げをみんなで爪楊枝で食べられるぐらいに小分けにして持っていくんですね。驚く子もいますよ。こんなに大きいんだーって」

帰り際、斉藤さんのお孫さんが学校から帰ってきた。小学校1年生のまなちゃん。背中には公式キャラクターの「なまりん」が交通安全のハタを掲げていた。ランドセルの写真を撮らせてほしいとお願いするとおじいちゃんと一緒に笑顔で応えてくれた。「ナマズは好き?」と聞き忘れてしまったがどうなのかな? 少なくても吉川市が「なまずの里」である実感は、どの子よりも強く持っていることだろう。


「なまずの里」でナマズを釣りたい
糀家さんを訪れた10日後の9月頭、もう一度だけ吉川を訪れた。目的のひとつはナマズを今も獲っている人の話を聞くこと。もうひとつは「なまずの里」でナマズを釣ることだ。ナマズ釣りをする人ならばご存じのとおり、ナマズはルアーにアタックしてきても、なかなかハリ掛かりに至らない。だからどうにかしてハリ掛かりをよくするための工夫をルアーに求める。今回、使用したフッキングノイジーもテールフックの接続部にクッションを設けてフッキング効率を上げる仕かけが施されている。


ノーマル状態だとお腹にもフックが付いているが、使ったのはフックの代わりにブレードの付いたバージョンだ。ナマズは針を外すのが難しくトレブルフック2本だと過剰に魚体を痛めてしまうこともあるので、テールフックだけなのはいいとして、今回はさらに3本出ている針先をひとつ折り曲げて使っていた。それを理由にはできないが4回アタックがあってハリ掛かりはなし。7時半を回る頃には熱中症を心配するほどの暑さとなり退散、「なまずの里」のナマズを釣ることはできなかった。
いつか釣れたらいいと思う。でもそれぐらいの感覚。ルアーにアタックするナマズがたくさんいることはわかったのだから、良しとする。



図書館で一休みして、昼時に合わせ「福寿家」と「ますや」でタタキを買った。糀家とはまるで違う味があった。3店ともに異なり、それぞれが素晴らしい。惜しむらくは市内にある小さな老舗天ぷら屋さんのタタキを食べられなかったこと。次の吉川来訪の楽しみとしたい。


午後になると、今も大場川に罠を仕掛けてナマズを獲っているという飯島輝男さんを訪ねた。御年88歳。建設業のかたわら農業も行っている。稲刈りの繁忙期であるにも関わらず、真っ黒に日焼けした顔で出迎えてくれた。冷房の効いた事務所でお話を聞く。

「ここらへんは昔ね、十町(約1万㎡)ほどの大きさの中井沼があったの。吉川市の中央ね。今は埋め立てして住宅街になっちゃったんだけどね。昭和40年ぐらいまでは、みんなそこでナマズだのコイやウナギだのを獲っていたんです。昭和6年に大場川をつなげて田んぼや畑としても利用していたんだけど、その頃も一年中魚は獲れていました。タガッポという竹筒でウナギやナマズを獲ったりね。それを吉川の料理屋に売ったりね。本当にいっぱい獲れたんです。ナマズが獲れると親戚に声をかけたりしてね、ナマズをトントントントン叩いてタタキを作るんです。好きな者で集まって食べてね。もう今じゃ信じられないほどナマズが獲れましたから」

中井沼(飯島さんは「なかいのぬま」と呼ぶ)の一部が田んぼになっていて、飯島さんは舟を繰って田んぼと沼を行き来しては、稲作をしたり魚を摂ったりしていたのだという。
「ヒシの実って知ってます? 昔は忍者が使っていた投げビシがね、中井沼にはびっしりあったんです。これ刺さったら軽自動車のタイヤなんかパンクしちゃう。沼が埋め立てられて住宅地になるって時にね、集めて取っておいたんですけどね」。そういって見たこともない大型のヒシの実を手渡してくれた。オニビシだ。戦時中は食料としても重宝されたという。このオニビシは埋め立てられた沼の存在の証でもある。半世紀以上も保存していることを新聞で取り上げられたこともあるという。



ナマズをめぐる古い記憶と新しい街づくり
飯島さんが仕掛けてある塩ビパイプの罠を上げるのを見せてくれた。罠といっても本当にただの塩ビパイプだ。それでも大きなナマズが獲れるという。持ち上げる際は片方の口を網に差し入れ、そのまま引き上げる。
期待したがナマズは獲れなかった。思いのほか川の水が下がっていた。加えていくつかの罠は、陸に上げられて泥まみれになっていた。
「釣りする人が引っかけちゃうと、上げてそのままにしちゃうんじゃないかな……」と飯島さん。ともすれば罠にすら見えないシンプルなものだが、同じ魚にアプローチする者として、さらにもう少し注意深くありたいと思った。

今回、吉川を訪れて最も心に浮かび上がったのは、70歳を超える人たちの記憶の中にある昭和30年代ごろまでの田園風景だ。そこにはまぎれもなく生活に密着した「なまずの里」があったことだろう。ナマズは人との距離が近い魚だった。同じく人との距離が近いサケがそうであるように、ナマズもまた文化を育む魚だ。その地に生きているものを獲って料理して食べる。それは確かにひとつの理想だと思う。一方で、1995年に始まった町おこしとしての「なまずの里」もまた、文化の始まりである気がした。もう四半世紀を経ているとはいえ、文化を育むスケールからしたら、まだまだ入口の段階だろう。
今の時代、誰もが自分の獲ったナマズを美味しく食べるなんてことは簡単ではないし、今回の取材では競合種とも言えるアメリカナマズも目にした(アメリカナマズも美味しい魚ではあるが……)。それでも市内には田んぼが広がり、水路がめぐり、今もなおナマズは吉川の人々の暮らしのそばに、実際に棲んでいる。公式キャラクターの「なまりん」も可愛いしナマズコーラも美味かった。そして吉川の歴史を現代に伝える老舗の料亭では、ソウルフードと呼びたいタタキをはじめとするナマズ料理を美味しく食べることができる。
吉川には確かに「なまずの里」たるゆえんがあった。そして今もある。その断片はあちこちにあるし、未来のためにこれから作ることだってできる。食はもちろん、ナマズの生きる水路にも、昔語りにも、田園風景にも、残った沼のかけらにも、街のデザインにも、子どもたちが遊び学ぶ場にも。そして釣りにだってきっと「なまずの里」のエレメントはあるだろう。結局のところは、そこに住む人たちが「なまずの里」でありたいと思うのかどうか……。
外部から来たナマズが好きな一介の釣り人である私は、ただそうあって欲しいと願っているわけなのだが。
