



武蔵野台地を流れる都市型河川。東京都小平市と東村山市の境にある小平霊園内のさいかち窪に水源を発して埼玉県の新座市、朝霞市と流れて新河岸川へと合流する。東京都東久留米市で合流する支流の落合川は都内では珍しい湧水豊富な清流。埼玉県内の黒目川は、川沿いに設けられた遊歩道が近隣住民の憩いの場となっており、散歩やジョギングなどを楽しむ人が行き交う。新河岸川の下流は隅田川となり、東京湾へと注ぐ。途中、堰堤などの障壁がないためスズキ、ボラ、ハゼ、マルタウグイ、そしてアユなど、海なし県の埼玉県でありながら、海からの多くの魚が遡上してくる。新河岸川や支流の黒目川は、そんな貴重な川となっている。
川底から美しき虹色のミミズが現われた!
水の中に……ミミズ!?
それは流れてきたわけではなく、紛れもなく目の前の川底から私が掘り出したものだった。グネグネと激しく体をS字によじったかと思うと頭の先を細長くすっと伸ばし、小石と小石の隙間に潜っていきそうになった。急いでつまみあげてみると、ミミズのイメージにあるヌメリ感はなく、思いのほかスベスベとしている。そして体はムチッと張りがあり、太陽の光を受けると虹色の帯がメラメラと体表を揺らめいているではないか。
美しい……。ミミズに抱くにしては、なかなかおよびもつかない第一印象を抱いた私は、カメラのレンズ越しに、しばらく見入ってしまった。



私とミミズとの接点と言えば、多くの釣り人がそうであるように「キジ」と呼ばれる釣り餌としてのミミズだ。子供の頃に通い詰めたコイとキンギョの釣れる室内釣り堀では、サシ(ハエの幼虫)と短く切って小麦粉にまぶしたウドンが定番だったが、なぜか「大人用の餌」として縞々で赤いキジが用意されていた。時折、父が使う分を借りて糸を垂らすとよく釣れる。なぜこんなに釣れる餌が大人用なのだと不満だったが、今思えば扱い方の問題だったのかもしれない。チョン掛けで足りるサシやウドンに比べると確かにキジは刺し方が少し難しい。釣りバリに縫うように刺し進め、ハリ先だけを少し出して余りは垂らすのがそのやり方だったが、子どもには少し難しく、独特のぬめりとニオイも少し苦手だった。
もうひとつ、父や兄との思い出に、相模湖でのブラックバス釣りがある。当時は第一次ルアーフィッシングブームのはしりで兄は慣れないベイトキャスティングリールでルアーを投げ続けていたが、父と私はキジを餌にしたウキ釣りだ。ボートを急深な岩場に繋ぎ、2mほどのウキ下を取ってキジを垂らす。大きな棒ウキがジュポッと消し込むと、グラス製の渓流竿がぐにゃりと曲がり、竿先が水面まで着いてしまうほどの引きが手元に伝わる。たいていは30cmほどのニゴイかそれよりも小さなブラックバスだったが、中学校に入りたてだった自分には、普段釣っているコイやキンギョとは比べものにならない目を輝かせるほどの大物だった。餌のキジは釣りに行く前日に近所にある畑の脇の空き地で調達した。なぜかそこには畳が重ねて置かれていて、湿ったその隙間からたくさんのキジが取れた。今思えば誰かの所有地だったはずだが、私たちにとってはとっておきの餌場だった。


土の中のミミズはなぜ魚の餌になる?
ところでミミズと言えば、釣り人の間ではしばしば次のような議論が交わされることだろう。
「ミミズは土の中にいる生き物なのに、なぜ水の中に棲む魚の餌として有効なのか?」
あのニオイがたまらないのだ……とか、「黄血」と呼ばれるようにハリを刺すと体からにじみ出てくる黄色い液体が魚を誘うのだ……など、ひとしきり意見を交換した後、最後にいつも行き着いたのは「大雨の時に土とともに流されて魚に食われているからだ」という説だった。マッチ・ザ・ベイトやマッチ・ザ・ハッチなんて言葉も知らない子どもでも「普段から食べている」という答えが欲しかったのかもしれない。もしくは当時人気だったポケット釣り百科か何かに書かれていたのかもしれない。いずれにしてもミミズの議論は「大雨時に流される」という結論に収束することで落ち着いた記憶がある。
では、今見たきれいなミミズも陸地から流されてきたのだろうか? それにしては弱った様子もなく、見た目も健康そのものに見えた。なにより川底に戻したミミズは、そのまま流れに抗しながら口先で石と石との間を探ると、するすると潜っていってしまったのだ。



その日の仕事を終えると、また川へと向かった。川底で見つけた虹色のミミズがどうしても気になってしまったのだ。
しばらくニゴイの産卵場の周辺を探してみたが、見つかるのはシジミと、「黒川虫」と呼ばれるヒゲナガカワトビケラの幼虫だけだった。ミミズがいたのはたまたまなのか? 他にこの川で、似たような場所はないものか……。少し上流の小さな中洲がつくる細く浅い分流が頭に浮かんだ。小石と砂利と砂。緩く浅い流れにはシジミがいそうだし、シジミがいる所ならばミミズだっているかもしれない。
産卵後のためかボーっとたたずんでいたニゴイを横目に分流を上る。やや浅くなった分流の入口では、適度な流れが砂礫底を洗っている。いるならばここだろう。そう思って少し掘ると、いきなり黄色い殻のシジミが2、3個現れた。さらに掘ると、大きさの異なるシジミを多数見つけた。そこはシジミの溜まり場だったのだ。




面白いようにシジミを掘り集めていると、細くうねる姿が現れた。……いた。ミミズだ。しかも朝に見たものと同じく体には張りがあり、虹色にギラギラと輝いている。「ずいぶんとマッチョなミミズだな……」と思い、自分の中で「マッチョ虹色水生ミミズ」と名付けることにした。さらにもう一匹、今度はまったく異なるミミズが現われた。体表がゴカイかイソメのようにギザギザで、頭が細長く、しかも頭の近くに巻かれたハチマキがオレンジ色だ。なんだこれ? まったく初めてみるユニークなこのミミズには「オレンジハチマキ水生ミミズ」という名前を与えた。
私はひとり、興奮していた。いる。ミミズは川の中にいるんだ。今ならば子どもの頃からの議論に快い終止符が打てる。ミミズが釣りの餌として優れているのは、ミミズが川の中にいるからなのだ。


若いカラスも川底のミミズを食べていた
川底のミミズを掘るようになってから、とあることに気付いた。私がミミズを掘っているのは緩い流れのある浅瀬だが、そんな場所を気にしながら川を歩いていると、川底をついばんでいるハシボソガラスの存在が目につくようになった。おそらくそれまでもいたのだろう。目に入っていても見ていないなんてことはしばしばで、この時もカラスの様子を観察して、なぜ今まで気づかなかったのだろうと驚いた。カラスは浅瀬の水に浸かりながら川底の石を器用にひっくり返しては黒川虫を、そして川底のミミズを引っ張り出すようについばんでいたのだ。
川にミミズがいるなんて私は知らなかった。でもカラスたちは当たり前のように石をひっくり返して食べていた。これまでもずっとそうしていたのだろう。まだ動きのおぼつかない若いカラスにとって、川の黒川虫やミミズは「狩り」よりも「採取」に近い形でタンパク源を得られる重要な餌なのかもしれない。


底質から川を見直してみる
それからも空いた時間があると、川を掘ってミミズを探した。10本の指の腹に伝わる感覚を通していろいろなことが少しずつわかってくる過程は、これまで知らなかった川を理解するためのとても有効な手段のような気がして夢中になった。
まず、基本的にミミズは砂の上に砂利と小石が敷き詰められているような、適度に流れのあたる川底に潜んでいた。シジミなどと同じ層だ。流れが少し強すぎる所では黒川虫の張る網によって川底の石が硬くマット状に連結されており、そんな所ではミミズはなかなか見つけられない。一方、流れが緩く石や砂利の層と、その下にある砂の層が分離せず柔かくまじりあっているような所にもミミズは少ない。さらに遅い流れになると川底は砂や石ではなく泥となり、掘ると川が濁るため、やはり見つけることはできない。ミミズを見つけることのできる底質にはそれなりの特徴があり、その特徴をつかむことで、より効率的に川底のミミズと出会えるようになっていった。






川のミミズと相性のよい植物は……
本当はもっと色々な場所を探したほうが新しい発見を得られるのだろう。だが、そもそもそこまで多くのミミズを見つけられるわけでもなく、自然と似たような所ばかりを意識して掘っていくようになった。掘ってみてはミミズのいる・いないを確認する。それを繰り返すことで、ミミズのいる場所が感覚的につかめるようになっていった。指先で得られる感触も大切だ。一方で周囲の植生や飛んでいる虫にも共通点があることに気付いた。そのひとつはヤナギタデとハグロトンボがセットになっている風景だった。
ヤナギタデは「蓼食う虫も好き好き」という諺で知られる川辺の蓼で、葉をかむとピリリと舌を刺すような辛みがある。諺は「こんな辛い葉を好んで食べるモノ好きな虫もいるものだ」……という着想から生まれたようだが、一方でこのヤナギタデの葉をすりつぶして酢で溶いた「蓼酢」はアユの塩焼きの薬味として好まれてきたという話もある。身近な川の草だ。
このヤナギタデが生えている場所は、実に川に棲むミミズにとっても条件の良い場所のようだ。そして真っ黒な翅でパタパタ、ヒラヒラと舞うハグロトンボがよく目につく場所だ。なぜヤナギタデが生えている場所をミミズやハグロトンボが好むのかはわからない。わからないが、何か強い結びつきがあるのだろう。自然を生きる動植物は、その場所その場所で網目のような関係性を巡らせている。人間の目にはその一端しか見えない(気付けない)が、その一端をつかめただけでも、その自然への親近感は増すだろう。実のところ私が「釣り」という遊びに求めているのは、狙う魚をきっかけとして自然の中の生き物同士の関係性の一端を理解することだ。そういう意味では竿を持たずとも、相手が魚ではなくミミズだとしても、同じような楽しみ方をしているのかもしれない。



ニゴイに始まり、アユに……終わる?
ニゴイの産卵行動に端を発し、シジミや川に棲むミミズを見つけたことで、これまでさほど意識してこなかった川の底質を知る面白さに気付くことができた。言い換えればそれは、底質から川を把握する面白さとも言えるだろう。ならばその流れを汲んで、最後は川底に依存して底質を強く意識する魚を釣ってこの話を終えよう。そう思って7月の中ごろに竿を持って川に立った。狙うのは春に海から遡上し、そろそろこの川底の石についた苔を食みはじめるアユだ。
そうだ、アユが釣れたらヤナギタデを摘んで蓼酢をつくろう。そしてこの川の味を堪能するのだ。


この川のアユ釣りはドブ釣りに限られる。石のコケを食むようになると芽生えるナワバリ習性を刺激する友釣りとは異なり、ドブ釣りとはキラキラした毛針のような枝針に食いつかせる釣法だ。アユは小さいころは流れてくる虫などを食べる動物食なので、ドブ釣りは適しているが、コケ食に変わるとやや分が悪いのではないか。そんな心配をしながらハグロトンボの舞う川辺で半日竿を振ってみたが……見事にボーズ。蓼酢で食すアユの塩焼きはお預けとなった。その代わりにオイカワが釣れた。オイカワもニゴイやマルタウグイ同様、この川の砂利底に産卵するコイ科の魚だ。ただ、産卵期は盛夏となる。
そう、コロナ禍のさなか近所の川でひたすらミミズを掘りつづけている間に、季節は夏となっていた。見事に青いオイカワの婚姻色が、夏の始まりを教えてくれた。
今年の夏の始まりの、きっと忘れられない瞬間となった。
