



鳥海山の山すそに広がるブナ林に源を発し、西の出羽山地と東の奥羽山脈に挟まれた新庄盆地を南流、最大支流の真室川と合わさり鮭川村を経て戸沢村で最上川に注ぐ。サケやアユ、サクラマスが遡上して釣り人を楽しませてくれる本州随一の清流。鮭川村内の孵化場やウライ(サケを捕獲する柵罠)は支流の泉田川にある。
サケのように鮭川を上る
11月18日。山形新幹線・新庄駅のホームに立つと、しんと引き締まる空気に包まれた。もはや「南国」とも感じられる埼玉南部から一気に緯度を上げたのだから当然だが体がこわばる。駅前のレンタカーで軽自動車を借りると、さてどのようにアクセスしようかと思いを巡らせる。鮭川は東北の大河川・最上川の支流。最上川も鮭川も川本来の大きな蛇行を残している。直線距離ならさほどでもないが、川沿いに行こうとすれば距離がある。だが、慣れない川を見る場合、私は下流から遡行していきたい。川を溯上するサケのように。少しずつ川が山あいに這い上がっていくさまを体で感じたい。
遠回りして最上川との出合い(合流部)に着くと、手前岸は工事中で多数の重機があった。高台からヨシなどの茂る合流部を見下ろす。鮭川は最上川に注ぎ込むというより、緩やかに流れ合わさっていた。鮭川生まれのサケは、ここで鮭川の匂いを嗅いで、進路を決める。そんなことを想像するだけで、早くも心が熱くなってしまう。


水は薄茶色く濁っていた。だが透明感はある。かつて初春にサクラマス釣りでよく訪れていた宮城県の北上川で見た、雪代が出始める透明感のある濁りを思い出す。遠く南方には雲の隙間に月山が見えた。行きの新幹線では森敦の『月山』を読んでいた。そこには、どぶろくを密造する山村で過ごした冬の暮らしが綴られていた。鮭川村は、月山と鳥海山をはじめとする山々に四方を囲まれた盆地であり、なめこ、しいたけ、えのきたけなどを生産するきのこ産地となっている。鮭川村は米作りも盛んな土地だが、上流にある真室川町は林業の町で、昔から山仕事を生業とする人の多い山ふところとなっている。
橋の上から曲がりくねった鮭川を見下ろす。想像していたよりも水量が多い。最上川の支流という意識から、中規模の川をイメージしていたが、関東でいえば荒川や那珂川のような大河川の趣がある。本流へのウライ(川幅いっぱいに仕掛ける柵罠)設置は難しく、昔からサケはもっぱら船からの流し網で捕られていたという。
数週間前、サーモンロードの会がインスタグラムにアップした雪景色のウライ場を見ていたから、その風景を少し期待していたが、路肩に寄せられた雪のかたまりが消え入るように残っているだけだ。鮭川村にしっかりと根雪が降りるのはまだ先なのだろう。雪のない冬枯れの風景は、かえって肌寒さを感じさせる。今年のウライによる捕獲は5日前に終わり、すでに撤去されている。ウライは一年中設置しておけるものではなく、シーズン限定の罠であるため、毎年100万円ほどの費用をかけて設置して、期間が終われば片付ける。その費用もサケの溯上あってのことで、全国の例に漏れず、サケが戻らなくなれば存続は難しい。
3週間前に鮭の新切り教室で訪れた鮭川村公民館を横目に中心部を抜け、さらに上流の真室川町へ。そこにはかつて、鮭延城という鮭の名がついた城があった。

古くから鮭の名の付いた土地
鮭延の地名は古く中世の南北朝時代(1300年代)よりあるとされるが、戦国時代にはこの地名を名乗る鮭延秀綱という武将がいた。当時の名将・最上義光の家臣だった鮭延秀綱は、1535年(天文4年)に鮭川の支流である真室川の河岸段丘上に鮭延城を築城した。「鮭延」がサケに由来する地名であるかどうかは定かではないが、鮭川の流域には700年前には鮭の字が付いた地名があり、490年前には鮭の字が付いた城が建てられていた。
鮭延城は真室川沿いを走る単線の踏切そばにあった。こんもりとした暗い斜面林を少し上ったところで車を止める。とても静かだ。今にも枯れそうな小さな川が一本。その川沿いに鮭延城跡地へ登山道が延びている。5分も歩けば着くだろう。だが単独行ゆえ、ツキノワグマに対する緊張感があった。2025年はサケが激減した年である一方、クマの出没が激増した年でもある。当地でも夏から秋にかけてたびたびクマが目撃されていた。クマ避けスプレーを携帯し、首からはホイッスルを下げる。渓流釣りで山に分け入ることは多々あるが、これまでに感じたことのない緊迫感が漂う。サケ同様にこれもまた気候変動のためか、クマと人との距離感も随分と変わってしまった。
時折ホイッスルを吹き、息を切らしながら細い登山道を駆け上る。雪もないのに履き慣れないスノーブーツを履いてきたため、急く気持ちに足元がついていかない。何度か転びそうになりながらも、なんとか平らな山頂に出た。突然開けた頭上を見ると、大きな猛禽が低い空をくるくると舞っている。オオタカよりもさらに大きい。クマの気配に怯えている間に彼の領域を犯してしまった気になった。タカは悠々と空高く旋回すると、彼方に飛び去っていった。
城址には、地衣類に覆われた石碑があった。あらためて「鮭」の字に不思議な感じがする。見下ろす先の真室川は、私が「鮭川」に抱いていたイメージそのものだった。清流と呼ぶにふさわしい良い川だった。産卵に適した砂礫が敷き詰められた河床は産卵場としても適しているように思えた。遠くには雪に染まった山々が見渡せた。




城址を降り、近くの歴史民俗資料館に足を運ぶ。漁具の展示を期待したが、まるでなく、真室川町が林業の町であったことを知る。窓鋸(まどのご)と呼ばれる大きなノコギリが多数展示されていた。強く目をひいたのは鷹匠の展示だ。クマタカでノウサギなどを狩っていたという。巨大なクマタカの剥製を見ながら、城址の頭上を舞うタカを思い出していた。
夕方に公民館に顔を出すと、3週間前に1回目の鮭の新切り教室でお世話になった教育課の森多加志さんが迎えてくれた。森さんは申し訳なさそうに、2回目の教室が中止となった経緯を話してくれた。事前にも話は聞いていたが、理由はクマだった。塩抜きしたサケを村営の施設「鮭の子館」に吊り下げて干す予定だったのだが、サケがクマを寄せるとの懸念から、施設への吊り下げ自体が見送られたという。その結果、鮭の新切り教室のサケたちは、サーモンロードの会の矢口春巳会長の自宅倉庫に干されることになった。
燃えながら静かに眠るサケ
明朝未明。最上川漁業協同組合の孵化場へ向かう。鮭の新切り教室は中止となったが、作業工程は変わらない。1月20日に吊るすために、2日前の18日から漁協の池で塩抜きが行われていた。池に沈めて一夜寝かせたこの朝は、サケを磨く作業だ。会長の矢口さんから6時には始めると聞いていたため、暗がりの中、向かった。
胴長を履いた矢口さんは青いゴム手袋を肘まで上げると、サケたちの眠る池にトプンと入水した。卵や稚魚を飼うための地下水が掛け流しにされた細長いコンクリート製の池に、30匹ほどのサケが横たわっていた。ジンギリには、身の栄養を卵に取られないオスが使われる。池に眠るサケたちの身体には、オス特有の赤紫色をした炎のような模様が鈍く浮かび上がっている。ひどいアザのようにも見える。3週間もの間、塩に漬けられていたためか、皮には白いぬめりが浮いているようにも見えた。

矢口さんはサケを一匹ずつ水の中から引き上げると、亀の子たわしでゴシゴシと全体を磨き始めた。みるみるうちに、体表のぬめりが落ち、鮮やかな赤紫色の炎が燃えさかった。実際にこの体色は、オスがメスを巡って闘う際に浮き出る「闘争色」と呼ばれるものだ。表を磨いたら裏返して水をかけながら反対側も磨く。「イチビレ」と呼ばれて大切に扱われる大きな胸ビレや頭の周りも丁寧に磨く。一匹一匹を慈しむように。腹を割かれて3週間も塩漬けにされていたというのに、磨かれたサケたちには強い生命感と生き物としての存在感が宿っていた。これが見たかった光景なのだ、と改めて思う。ゴシゴシ、シュッシュッと続く音は、塩を擦り込む音ともまた違う、でも同じ気持ちを感じている。大きなサケを磨く姿は、ゾウ使いがゾウの体を洗うような、厩務員がサラブレッドを丁寧にブラッシングするような、そんなイメージとも重なる。愛しさを込めて、磨く。たわしを水につけるたびに、サケから剥がれたぬめりで池の水が白く濁る。それはまるで、サケの産卵の瞬間を思わせる。卵に放たれた精子は一瞬立ち込め、すぐに透明な水に流されていった。朝もやの立ち込める池の底に眠るサケを見る。炎を燃やしながら眠っているサケを。



しばらくして夜が明けてきた。背景は黒から群青色に、そしてブルーに。孵化場の池に照らされたヘッドライトの光がゆらゆらと柔らかく揺れている。その下のサケたちも月光に照らされたかのように揺れている。ふと、なぜ自分はこれほどまでにサケに惹かれるのだろうと考える。生き物として好きなのか。食べ物として好きなのか。実物にもイメージにも、畏敬にも近い念を抱き続けていると言ってもウソにはならないだろう。同時にこのサケたちが日本から離れゆく今という時代を改めて思う。


ジンギリの由来は刻みタバコ
磨き作業の撮影を終えると、今回お世話になった民宿まつ乃に戻り、ほかほかのご飯と焼き鮭、そしてサケの身がたっぷり入った「ヨー汁」をいただきながら、ご主人の佐藤清雄さんにサケの話を伺う。77歳の佐藤さんは、ウライを管理する寄合である「ウライの会」の会長を務めている。





サケへの思い入れが強い佐藤さんは、ジンギリにも一家言持っている。
「私が子どもの頃はジンギリはなかった。塩漬けにはしても、塩を抜いてぶら下げる人は誰もいなかった。だって冬に家で食べるなら塩漬けのほうがいいもん。もっと昔はね、山仕事があったから。風呂を炊く薪、ご飯を炊く薪、囲炉裏の薪と、たくさんの薪が必要だった。そのための山仕事に持っていったのがジンギリだったんだと思うよ」
塩蔵のサケは食べる前に一晩、水に浸けて塩を抜く必要がある。家で食べるならいいが、携帯用としては、いちいち現場で塩抜きなんてしていられない。そのために作られたのが、寒風に干してカラカラにした保存食のジンギリだという。「このぐらいの大きさに切ってね、穴を開けて、縄を通して腰にぶら下げて歩いたんだよ」。
そもそもジンギリとは、刻みタバコを入れて腰にぶら下げる容器のことなのだという。
「なぜそう呼ぶかはわかんないな。でも腰にぶら下げたサケの干物が(タバコの)ジンギリに見えたってことでしょ。あくまでも口伝だから、漢字は後からの当て字だと思うよ。昔の人は皆タバコを吸ったから。キセルとジンギリを腰に下げてね。今はあるとしても、骨董屋ぐらいじゃないかなあ……」
ヨーのジンギリ。鮭川流域に残る、暗号のような呼び名の保存食は、実に謎に満ちている。鮭川村なのに、サケのことはヨーということも……。
「正しくはサケというけど、この辺の田舎言葉ではヨーだよね。なんでかはわかんないけどね。人によっては『サケのヨー』っていう。サケだけでもヨーだけでもいいのに。うちの母親もサケのヨーって言ってたな。なんでだろうね」
面白い呼び名といえば、鮭川ではかつて「モンペ網」や「股引網」と呼ばれる網が、サケ漁に用いられていたという。モンペや股引は、昔の人が履いたゆったりとした作業用ズボンのこと。これらは、モンペや股引に似た細長い袋状の網がいくつも連なった横に長い網であり、鮭川村史には次のように書かれていた。
鮭漁について権利を持っている人々は、あらかじめつくっておいた「鮭止め(よどめ)」の下に「股引網」と称する網をはりサケを捕らえた。(鮭川村史第四節佐渡地区より)
どこかで見ることはできないかと佐藤さんに聞くと、「もう使ってる人はいないけど、確か十三郎さんが持ってたな。ひとつ聞いてみるか」と、そのまま軽トラで10分ほど走った先にある横山十三郎さんのお宅に連れていってくれた。


モンペ網、そしてジンギリが目の前に
横山十三郎さんは90歳。足腰を弱くして数年前にサーモンロードの会の会長を辞し、そしてウライでの捕獲を引退したというが、佐藤さんいわく、「鮭川村のサケを育て上げてきた人。サケのことならなんでも知ってるよ」とのこと。現会長である矢口春巳さんの父である矢口秀資さんとともにサーモンロードの会を立ち上げたメンバーの一人だ。「サケの話が聞きたくってよ」と佐藤さんが言うと、開口一番、やはり昔は獲れなかったという話。
「多くて20本ぐらいしか獲れんかったな。(昭和)35年から40年ぐらいは。最近よな。ウライできてから。この20、30年。それまでは獲れなかった。まだ孵化事業もあまりなかったでよ。その昔はよう獲れた言うんで、ヨーと呼ぶって話もあるでな」



モンペ網について聞くと、実際に使っていたことに加え、まだ今も持っているという。しかも驚いたことに「骨董屋にしかない」と思っていたジンギリまで大切に所持されていた。桜の樹皮が貼ってある。実際に横山さんが腰に下げて使っていたものだ。
「本当か嘘かわかんねえけども、俺が聞いてんのは、北海道のアイヌがサケを塩漬けにして乾燥させてよ。このぐれえに切って、狩りに行く時に腰に下げて。そこからきたんでねえかと聞いた。嘘か本当かわかんねえけども。それがアイヌが持ってたタバコのジンギリに似てるってことで、ジンギリと呼んでたと」
そういうと、佐藤さんが話を継ぐ。
「いや、アイヌは元々タバコ吸う風習がねえから。たぶん江戸時代から、北海道に行く人たちがあったのよ。松前藩に行った人たちがいたのよな。その頃、江戸から北海道に行った人が、アイヌの腰に下げている魚を見て、タバコ入れのジンギリに似てるってことで(その保存食を)ジンギリって呼んだんでねえか。ここらのサケの保存食もそれに似ていたもんだから、ジンギリって呼んだんでねえかな。あくまで想像だけんども」
いったい、鮭川村の人はヨーのジンギリを腰からぶら下げてはいたのだろうか?その問いにも「それはやらない。鮭川村は米の里だから」という横山さんに対し、「いや、山仕事なんかでは持っていっただろうよ」と自論をぶつける佐藤さん。話は尽きない。



網にサケがかかった
翌朝の未明。この日、軒先に吊るすサケを池から引き上げる様子を見させてもらった帰りぎわ、矢口さんとともに作業していた津藤多悦さんが、ウライのある泉田川と鮭川本流との出合いに仕掛けてあった刺し網で2匹のサケを獲った。前日の午後、私は泉田川沿いにある村の物産施設「鮭の子館」から鮭川本流の出合いまで2kmほど川を歩いた。ウライが撤去されたことにより、上流に溯上して産卵するサケがいないかと思ったのだ。残念ながらサケの気配はなかったが、最後に鮭川との出合い近くで刺し網が張られているのを見た。そしてその下流の流心で、水面を切り激しく闘う2匹のオスザケを確認していた。12月20日にして、まだサケが溯上している!そんな事実に心を躍らせていた。



津藤さんが獲った一匹は、まだ卵を抱いたメスだった。もう一匹もメスだったが、身体は擦り傷だらけで白く、持てるエネルギーを尽くした後のように見えた。網から外されると、そのまま浅瀬に残された。かつてないほど数の少なかった今シーズン。12月も中旬を過ぎて生まれ故郷の泉田川に戻り、自然産卵を果たしたサケがいる。その事実に安堵した。思えば人が日本列島に住み着く前からサケはきっと、この地で命をつないできたのだ。何万年、いやおそらくは何十万年以上も。それが今、人による気候変動の影響で途絶えようとしていると考えれば罪深い気持ちにもなる。今私たちが共有すべきことは、サケが食糧である前に「野生動物」であるという感覚ではないだろうか。そんなことを思った。




冬空にヨーが上る
11時、サーモンロードの有志メンバーが矢口会長宅に集まり、軒先に吊るす作業を行なった。尻尾に紐をかけ、渾身の力を込めてきつく縛る。縛り方が中途半端だと、サケは途中で落ちてしまうから、力は抜けないという。倉庫の裏に20匹、表の「サーモンロード」側にも20匹のサケが吊るされた。いずれも磨かれてピカピカになった美しいオスのサケだ。


塩漬けにされたサケは磨かれて再び輝きを増す。吊るされたサケは、雪風の吹きつける厳しい冬を経て、ヨーのジンギリに生まれ変わる。これも一つの命の循環の姿と言えないだろうか。と同時に、もう一つの命の循環にも思いを巡らせる。その頃、孵化場では次世代のサケたちが少しずつ成長して海に降る準備を始める。そして自然産卵によって産み落とされ川底の砂礫の間に眠っていたサケの子たちもまた、浮上して海を意識する頃だろう。








