



鳥海山の山すそに広がるブナ林に源を発し、西の出羽山地と東の奥羽山脈に挟まれた新庄盆地を南流、最大支流の真室川と合わさり鮭川村を経て戸沢村で最上川に注ぐ。サケやアユ、サクラマスが遡上して釣り人を楽しませてくれる本州随一の清流。鮭川村内の孵化場やウライ(サケを捕獲する柵罠)は支流の泉田川にある。
激減期にある日本のサケ
今、日本のサケが減っている。
国の研究機関が発表した令和7年度の「さけます来遊状況」によれば、沿岸での漁獲数と河川での捕獲数を合わせた全国のサケ来遊数は693万尾。前年の39%であり、1989年(平成元年)以降、最も少ない数だという。
主な原因は気候変動、つまり温暖化による海水温の上昇と言われている。温かい水が冷水性のサケにとってよくないことは容易に想像つくが、実際にはもう少し複雑で、さまざまな要因が考えられている。なによりも川で生まれたサケの子どもたちが北の海に旅立つこと自体が困難になっているようだ。さまざまな対策が練られてはいるが、明るい展望は開けていない。各地のサケ漁業や川での採捕もままならず、これまでサケの数を劇的に増やしてきたとされる人工孵化放流事業も衰退をたどっている。
サケは言うまでもなく野生の生き物だ。川で生まれたサケが約4年間にわたって大海原を回遊し、生まれ故郷の川に戻ってきて産卵する営みは、多くの人に知られるところ。命をつなぐ感動的なストーリーは人の心を打つが、実際には大部分のサケが命の循環を許されていないと言えば、驚く人はどれほどいるだろうか。故郷の川に戻ってきたサケの大部分は沿岸で漁獲される。網をすり抜けたサケだけが川を上って産卵できるかと思えば、そうでもない。多くの川では「一括採捕」と呼ばれるウライ(川幅いっぱいに仕掛ける柵罠)での捕獲によって、ほとんどが捕らえられ、メスは卵を取るために腹を割かれ、オスは精子を取るために腹を絞られる。人の手で受精された卵は人の手で10cmほどまで育てられ、川に放流される。これが人工孵化放流と呼ばれるものだ(ちなみに川でのサケの「漁」は禁止されていて、サケの捕獲は人工孵化放流事業のための「採捕」と呼ばれる)。
いわゆる自然下で「命の循環」を果たせるサケは、沿岸に回帰したサケ全体の1%ほどという説もある。増水時にウライを越えられたサケや、ウライの下流側で産卵したサケだけが、わずかに野生の生き物として命を繋ぐことができる。
一般的に、魚の死亡率は生まれて間もない時期が一番高い。サケの場合、自然下では海に降る前に80%ほどが死んでしまうと言われるが、その時期を人が手厚く管理することで、死亡率を10%ほどにまで下げることができる。自然に任せるよりも格段と多くの稚魚を海に送り出せれば、その分、戻ってくる数も増えるという理屈。これにより、日本のサケは1970年代初めから2000年前後にかけて爆発的な増加を辿ったと言われている。ここで「言われている」と書くのは、今もなお爆発的な増加にどこまで人工孵化放流事業が貢献したのか計り知れていないためだ。事実として2000年を過ぎると、人工孵化放流事業の順調とは裏腹に、サケの来遊数はみるみるうちに減少をたどってしまった。ピークだった2000年前後の8000万~9000万尾に比べると、2025年は693万尾と最盛期の7%ほどにまで減ってしまっている。人工孵化放流で河川での死亡率を劇的に下げられたとしても、海の環境がサケにとって悪くなれば来遊数は下がってしまうということなのだろう。
サケの著しい減少は、サケに頼ってきた漁業や加工業、食文化の衰退につながる。当連載でも取り上げてきた「サケのまち」である新潟県の村上でも、名産の塩引き(しおびき)を作るためのサケが足りなくなったため、他所からのサケの買受けにとどまらず養殖サーモンを用いる試みまで行われている。2013年に約1万8000尾以上の溯上が見られた利根川も、2024年と2025年の溯上数はゼロである。北海道や岩手県など東北各地では、獲れないサケの代わりにサーモンの海面・陸上養殖が進められている。サケに頼ってきた地域はどこも今、サケの不漁にあえいでいる。

日本で唯一鮭の字が入った自治体で
全国で唯一、「鮭」の字が自治体の名称に入っている山形県の鮭川村(さけがわむら)も、サケの著しい不漁を憂う地域のひとつ。南に月山、北に鳥海山を仰ぎ、東西を山地に囲まれた内陸の盆地で、村名の由来となった鮭川を中心とする人口3417人(2025年1月現在)の小さな村だ。最上川の支流である鮭川は、古くからサケがたくさん上ってきた川であり、「鮭川」という名もその表れと言われている。流域の縄文遺跡からはサケの豊漁を祈る鮭祭りをしたと推測される石組やサケの形を刻んだ鮭石も発掘されている。南北朝時代にはすでに「鮭延(さけのべ)」という鮭の字の入った地名が表れていたように(現在の真室町)、古くからサケとのつながりの深い川であることは間違いだろう。


鮭川には、鮭川村を中心に上流の真室町や下流の戸沢村に伝わるサケの伝統的な保存食がある。「ジンギリ(新切り)」と呼ばれるそれは、秋に川で漁獲したサケを塩漬けにし、塩を抜いてから寒風に干して作られる。工程の基本は当連載でも過去に取り上げた新潟県村上の「塩引き」にも似る。大きく違うのは、塩漬けや仕上げにかける期間の長さだ。村上の塩引きが晩秋に仕込んで年末年始に食べるのに対し、鮭川のジンギリは年をまたいで2月中旬ごろまで雪の中、寒風にさらされる。似て非なるものである所以は、追って書きたい。その違いも十分に理解しないまま、私はジンギリを作る工程のとある姿を一目見たいとの思いのみで、この地を訪れた。旅の始まりは、2025年11月29日に鮭川村で行われた「鮭(よー)の新切り教室」に参加したことだった。
鮭川村の鮭の新切り教室に参加する
シュッ、シュッ、シュッ……。大型のサケの身に粗塩を擦り込む心地よい音が室内に響く。大きな軍手をはめた小さな手が、サケを慈しむように前後する。無心に塩を引く小学校中学年の女の子の隣では先生役のおじいさんがサポートするようにサケに手を添える。尻尾から逆撫ですることで倒れた一枚一枚の鱗を起こし、そこに塩を行き渡らせていく。エラやヒレの付け根、目玉にも丁寧に塩をまぶしていく。ジンギリづくりで最も重要な作業の一つは、サケを見て、サケを手で撫でる作業なのだ。

地域のサケ文化をつなごうとする有志団体の「サーモンロードの会」のメンバーが中心となって毎年行われている鮭の新切り教室は、2025年で21回目を迎えた。小学生5名を含む9名が参加。鮭川村では東京都荒川区の小学校とサケを通した交流を行なっている。鮭川小学校の生徒2人が代表で12月に荒川区の小学校にサケの卵を運び、2月には育てたサケを荒川区の小学校の代表生徒が鮭川村に戻す。今回の鮭の新切り教室には、荒川区に卵を届ける大役を担う生徒も参加していた。
ジンギリを作る工程を11、12、2月の3回に分けて行われ、1回目はサケに塩を擦り込んで寝かせるまでの作業。大きなサケに悪戦苦闘しながらも、子どもたちは慣れない作業を楽しんでいる。まずなにより、丸ごと1匹のサケを見る機会だって多くはない。自分の背丈の半分はあるサケがずらりと並び、自分がジンギリにするサケをくじ引きで選ぶ。80cmはありそうな立派なオスザケに目を付けていた男の子が、見事にくじを引き当てて歓喜する。一番小さくて痩せたサケを引いた男性は、息子が小学校1年生から6年生まで毎年参加して付き添っていたが、今年は用事が重なって参加できなかった息子の代わりに自分が来たと話した。
腹を割き、内臓やエラを取り出し、背骨に付いた血合をスプーンでこそげとり、よく洗ってぬめりと血を落とす。それを、塩を山盛りにした台に乗せ、全体に塩を擦り込んでいく。最後に腹にたっぷりと塩を詰め、それがこぼれないように抱えて運び、用意されたプラスチック製のコンテナに重ねていく。次は約3週間後。それまで冷暗所で塩に浸ける。身に塩を効かせ、余分な水分とともに臭みを抜く。





ウライにサケはいなかった
鮭の新切り教室では、作業の前段として、鮭川に設置されたウライと人工孵化放流を行う漁協の孵化場を見学する時間を設けている。鮭川村のウライは鮭川本流ではなく、支流の泉田川下流部に作られている。かつては本流に設置した時代もあったが、上流の真室町までサケが上がらないことが問題となり、支流に設置されるようになったという。
「この先を越えてあっち側へ行くことはできないので、必ずあそこを通って上に行こうとします。見えますか、あの三角になった入口に入ると出られない仕掛けになっています。サケが多かった時代には、一人で200から300ぐらい捕まえてました。そこの仕切りのある箱に、隙間なくぎっしり収まるぐらいサケが獲れていたんです」
ウライを前に、サーモンロードの会の矢口春巳会長が説明する。傍には大きな木製の箱がある。畳を縦に2つ並べたぐらいの大きさで、木板で仕切られている。ウライで採ったサケは卵と精子を採った後、均等に枠に分けられて、参加した仲間でくじを引いて分配する。数年前まで1シーズンで3000匹ほど採れていたサケが、今年はその10分の1ほどしか採れていないという。説明の後、矢口さんは胴長(胴付長靴)を履いて捕獲柵の中に入り、サケを探してくれたが1匹もいなかった。実は鮭の新切り教室用のサケも直前まで揃えられるかわからず、他所からの購入も考えたという。なんとか前日までに集めた10匹を、このために用意することができたと話してくれた。







10本獲れれば餅ついた
教室を終えた後、矢口さんの自宅にある寄合部屋で、鮭川のサケとサーモンロードの会について話を聞いた。サーモンロードの会は矢口さんのお父さんである矢口秀資さん(2023年に逝去)ら4人の有志が1999年(平成11年)に立ち上げた会だ。発足の理由は村名でもあるサケの有効利用と食文化の後世への継承。かつてこの地で作られていた「ヨーのジンギリ」を復元し、村の中心を通る国道458号線の軒並みに吊るして「鮭の道」を作ろうと始められた。
鮭川村ではサケのことを「ヨー」と呼ぶ。新潟・村上の「イヨ」と同じく「魚(ウオ)」が転じたとする説が有力だ。つまり魚イコール、サケであるというぐらい地域にとってサケは大切な魚だったというわけだ。「かつては“異様”なほど大量に上っていたから」という説もあると矢口さんに教わった。イヨウが転じてのヨーというのも面白い。興味深いのは「サケのヨー」や「サケのヨ」という呼び方もある点だ。いわば「サケの魚」となるが、なぜこのように呼ばれるのかはわかっていない。もっと興味深いのは、「鮭川」の由来である。なぜ地元ではサケをヨーと呼ぶのに川の名前は「ヨーガワ」ではなく「サケガワ」なのか。だれがサケと呼び、だれがヨーと呼んでいたのか。いにしえの記録は乏しく確固たる由来は鮭川村役場でも辿れていない。
もう少し時代を経て明治期から昭和初期の頃の話となると、サケの話は口づてに残っている。意外と思われるかもしれないが、その頃のサケは高級な魚だったという。矢口さんは言う。
「昔、鮭川村では『10本獲れれば餅ついた』というんですね。サケはなかなか獲れず、めったに口にすることのできない高級品だったそうです。私は分家の4代目ですが、初代は正月のお祝いの席にサケが出てきたという話を残しています。一切れ出されたサケを自分では食べずに家に持ち帰り、家族と一緒に食べたとじいさんから聞きました。今から120年ぐらい前の話ですか。サケを獲るにもそのころは世襲で限られた権利を継いだと言うし、網だって今ほど丈夫じゃなかっただろうから、数も少なかったとは思うけど、獲るのも難しかったんじゃないかな」
一方、サーモンロードの会が発足し1999年は、日本のサケの来遊数がピークを迎えていた時代だった。
「流通も発達して海で獲れるサケがいくらでも食べられましたし、なにより飽食の時代でしたから。川で獲ったと言っても血抜きもせずに丸々一本渡されれば調理も大変ですし、処理が悪いからさほど美味しくもない。『ネコまたぎ』なんて呼ばれてもいました。ネコもまたいで通り過ぎるぐらいの魚という意味ですね。畑の肥料にされたりもしました。かつては高級品と呼ばれたサケが、4年も海を回遊して帰ってきたサケがそんな扱いではかわいそうだと、親父たちは立ち上がったんじゃないですかね」
お父さんはそんなにサケが好きだったんですか?と聞くと、「親子ってあまり話をしないから、本当の気持ちはどうだったんだか。ただ村名にもなっているサケを大事にしようという気持ちがあったことは子どもながらに伝わりましたし、私も同じ気持ちです」と。
その頃から20年間続けられている鮭の新切り教室を、今は矢口さん世代のサーモンロードの会が継いでいる。会では教室のほかにも、39年続いている「まるごとさけがわ鮭まつり」や、私たち釣り人にうれしいサケの有効利用調査(サケ釣り)の手伝いもする。地域協力隊として鮭川村にやってきて、サーモンロードの会の事務方として働く若手の活躍もあり、オリジナルグッズ製作やジンギリの販売体制も整ってきたところだ。それなのに、肝心のサケがいない。戻ってこない。このつらさは、いかばかりか。


鮭の新切り教室の冒頭、矢口さんが参加者に伝えていた言葉を思い出す。
「全国的にサケが大変不漁になっています。大変貴重な魚になっています。昔はサケ1本が米1俵(約60kg)と交換できるぐらい高級な魚でした。今日は昔に戻った気持ちで保存食であるジンギリを作っていただきたいと思います」
話を終えての帰り際、冷凍庫に入れてあった前年のジンギリを見せてくれた。驚くとともに事前の不勉強を恥じた。そこには村上などで作られる塩引きとはまるで別物の、黒ずんで硬く乾いた1本のサケがいた。
「ジンギリはあくまでも保存食」
矢口さんの口からたびたび聞いていた意味が、ようやくわかった気になった。

