



鈴鹿山脈から集められた水が東近江市・彦根市の沖積平野を流れて琵琶湖東岸へと注ぐ流路延長41.1kmの一級河川。河口から約30kmに農業用水と発電を目的とした永源寺ダム(1972年完成)があるほかは、本流に魚の移動を阻害する構造物をもたず、琵琶湖のアユやビワマスが上流域まで遡上する。今回取材をさせていただいた愛知川漁業協同組合は永源寺ダムの内湖および、この上流約1.5kmと下流約11kmの本支流。本流はアユ、流れ込む沢はイワナ、アマゴの好釣り場として人気が高い。
4年目となるビワマスの簡易魚道作り。今年も有志たちが集まった
4年目を迎える渋川の簡易魚道作り初日は、発起人の瀬川貴之さんに紹介された村山邦博組合長の挨拶で始まった。
「去年は作業に行く時に、足元にビワマスがいっぱい泳いでいましたが、今年は上ってきてません。あれほど上っていたビワマスが、今年はまだ一匹も上っていない。温暖化、あったかいんです。アユの産卵もほとんど見られず、どうも時期がずれているんではないかと思っています。産卵床を見たりすると非常に来られた甲斐があるかと思うのですが、その点はご容赦いただきたいと思います」
ヘルメットと軍手に身を包んだ約30人の参加者は、一列になって漁協から数百メートル離れた堰堤へと向かう。途中、渋川の瀬を渡る箇所には小さな即席の橋が架けられていた。産卵床を踏まないための配慮だが、残念ながらその心配はなさそうだった。隣を歩く年配の方が足元を見ながら言う。「これ見てみい。歩くための草刈りだって村山さんがやってるで」。
何気なく歩いてきたが、見るときれいに草が刈られていた。





川原に降りて少し歩くと遠目に堰堤が見えてきた。高さは2.5mほど。薄い水が堰堤の上から落ちていた。やはり水は少ない。
現場に着くと、村山組合長が拡声器で指示を出す。傍の斜面に保管していた単管パイプを手渡しで川原へ下ろしていく。私も列に加わり、次々と渡されるパイプを横流しにしていく。手にずっしりと重さが乗ると同時に次の人が受け取ってくれるため負担は少ない。参加者が少なければこうはいかないだろう。見試しで始めた初年度は、10人ほどでスタートしたという。骨組みまでしたところでその年は終了。翌年は20人ほどが集まり、前年の経験を糧に、無事完成へと漕ぎ着けた。


瀬川貴之さんは、村山組合長にビワマス遡上用の簡易魚道作りを提案した張本人だ。瀬川さんと愛知川漁協の付き合いは2018年から。瀬川さんが代表を務める電子遊漁券サービスの「つりチケ」を漁協が取り入れて以来、イワナの発眼卵放流やアユイングなど、漁協が新たに始める試みのサポートをしてきた。

それまでの信頼関係あってのことだろうと思う反面、では魚道によってビワマスの産卵場が広くなり、ビワマスが増えたところで愛知川漁協としての利点はなんなのだろうとも考えた。産卵のために上ってくる10、11月は資源保護のために禁漁なのである。いくら増やしても喜ぶのは琵琶湖の漁師やトローリングを楽しむ釣り人ばかりではないか。
「たぶんメリットじゃないんですよね、村山さんは。熱意をもって地域を良くしたい、愛知川を昔みたいに良くしたいと情熱を持ってはるんです。メリット以上にボランタリー。そこが純粋にかっこいいところ。集まってくる人たちも利益を求めてやっていないというか、単純に気持ちいい、みたいな話かなと。僕にはそういう感覚があります」
よしやってみるか!と心を決めた村山組合長に対し、コーディネートする瀬川さんは、かねてから知り合いだった建設コンサルタントの佐々木章公さんに声をかけた。河川を専門とする現場系。この日も手伝いに来ていた佐々木さんは話す。
「渋川はええ川やから、魚道を作る価値は十分にあると思いました。当初は石を積むとか色々な案があったんですけど、とにかく簡易なものにしてくれと。そこで単管パイプを組んだ上にプラスチックの魚道を乗せることにした。強度的には、壊れてもええぐらいのもんです。あくまでも10月中旬以降の非出水期に限った設計ですから」
簡易魚道づくりの許可が得られているのは10月から2月の非出水期のみ。台風や梅雨など大雨の降る出水期は流される危険があるためだ。今回設置した魚道も2025年2月には解体しなければならない。

さらに発起人の瀬川さんは小さな水辺の自然再生に詳しい滋賀県立大学の瀧健太郎教授に声をかけ、琵琶湖環境科学研究センターの佐藤祐一さんと水野敏明さんともつながった。資金面では地元ファンドである東近江三方良し基金の協力も得ることができた。
「このようなプロジェクトを動かす時にまず欠かせないのは中核となる人の情熱と行動力、行動スキルです。村山組合長はそのいずれも持っていて、さらに元々役所の職員でしたから、どのような許可を取ればいいかも多少見えていた。そこに魚道の設計、生物調査、地域の調整、資金調達、行政対応ができる人たちがそれぞれ集まって、その人たちを僕のようなコーディネーターがつなげていくことで進められているのかなと思います」
愛知川漁協を中心にキーパーソンが集い、参加者も漁協組合員含め、2022年は約30名、2023年は約70名と年を追うごとに増えていった。初めて堰堤を越えての遡上が観察された2年目の2022年には、堰堤の上流部600mに22の産卵床を確認。これは推定で2.8万粒の卵に相当するという。さらに瀬川さんが簡易魚道の経済効果を試算したところ、年間で680万円の経済効果が弾き出された。魚道の定量的な効果は示せた。その上で皆が願うのは、このプロジェクトの最終目標だ。それは滋賀県が簡易魚道を評価して、「簡易ではない」恒久的な魚道の設置に動いてくれること。



ポツポツと雨が落ちてきたところで、この日の作業は終了となった。

漁協に戻り、カレーライスをいただきながら、ビワマスを愛してやまない水野さんの語りに皆で耳を傾けた。
「そもそもビワマスはアメノウオと呼ばれてまして、つまり雨の魚です。今日これで雨が降って水温がグッと下がればビワマスが上がってくる可能性はあると思います。しっかり作業した上で、雨も降らせる。皆さんは持ってます!」
一同から笑いが起き、盛り上がる。雨脚が強くなってきた。漁協の入口に飾られた木彫りのビワマスがしっとりと黒光りしている。水野さんが続ける。
「ビワマスは50万年前に琵琶湖の固有種として独立した、ここにしかいない極めて貴重な魚です。ヤンバルクイナやガラパゴス諸島のイグアナと同じだと思ってください。ビワマスは、サクラマスやサツキマスともかなり違う魚なんです」

2009年にビワマスの生理、生態、生活史まで網羅してまとめた一冊の本が出版された。『川と湖の回遊魚ビワマスの謎を探る』。私は以前からこの本を愛読しており、まだ見ぬビワマスへのイメージを膨らませていた。著者は滋賀県職員として滋賀県水産試験場や琵琶湖博物館、そして滋賀県醒井養鱒場にも勤務経験のある藤岡康弘さんだ。1990年、雑誌『魚と卵』に当時滋賀県水産試験場主任技師だった藤岡さんは次のような文章を書いている。かなりビワマスが数を減らしていた時代のメッセージだ。
かつてビワマスが大挙して遡上し産卵した河川は今では寸断され河川流量は少なく干上がる河川も少なくない。本種の採卵孵化放流事業が実施されているものの主要な産卵河川は2、3の小河川であるという現状では21世紀にビワマスが生存し得ているかどうかも保証できない。「ビワマスが天然に産卵できるまともな河川を一本でも二本でも保護することがなによりも重要である」という声は、ビワマスそのものの叫びでもあるように思われる。
今回、参加者のひとりに、なんと藤岡康弘さんがいた。研究職からは退かれたと言うが、今でもビワマスの保全活動に関わられているという。文章に書かれていたことを実践されていた。雨を避けるひさしの下、かつて数を減らしたビワマスについて話を聞いた。
「昭和40年頃から各河川にダムがいっぱいできて水も汚染され、ビワマスはどんどん数を減らしていきました。住民が川に目を向けなくなりましたね。愛知川でも細々とは上っていたと思いますが、産卵期の密漁も多かった。警察署に見回りを頼んだりしてね。産卵遡上していることを(保全のために)隠しておこうという意見もありますが、私はそう思いません。観察会を開いたり、今回のような活動を通して多くの皆さんに知ってもらうことで、みんなに見守ってもらうことが大事だと思います」

年配の組合員の方からも話を聞いた。永源寺ダムができてだいぶ水量が減ってしまったが、かつては6、7月に大雨が降ると一気に琵琶湖まで川がつながりビワマスが上がってきたという。
「アミノオは投網でも獲っとったけど、子どもたちは裸になって水中眼鏡で五寸釘を曲げた手カギで獲ったりもしたな。川を流れ下りながら何本も腰に縄で吊るしてなー」
宿に戻る途中、ワイパーを最速にしても追いつかないほど雨脚が強まった。雨の魚、アメノウオは川を上るだろうか。姿を見せてくれなくてもいい、少しでもビワマスにとって恵みの雨になることを願った。



朝、魚道を越えて上流を歩く
雨は夜のうちに上がり、川には薄くモヤが立ち込めていた。この日の魚道作りを終えたらすぐ帰路につかねばならない私は、早起きして渋川の堰堤を越えた。簡易魚道を上ったビワマスが遡上する川の様子を見てみたかったのだ。








魚道づくり2日目も多くの参加者が集まった
絶好の晴天の下、この日も30名ほどの参加者が集まった。地域住民に加え行政職員や河川や環境に関わる仕事関係者、大阪からの釣り人も参加。地元テレビや釣り雑誌も取材に来ている。お昼にはビワマスを炊き込んだアメノウオご飯とアメノウオ汁、ワカサギの天ぷらが用意されるという。ちょっとしたイベントの様相だ。

この日は前日組み上げた単管パイプの土台にプラスチック製のU文溝を取り付け、完成まで一気に仕上げていく。この日も村山組合長は、常時声を張って指示を出している。なんのために魚道を作るのか?なんのためにビワマスを上らせるのか?瀬川さんにも聞いた問いだ。前日の作業後にお茶をいただきながらお聞きした言葉を思い出す。
「魚はね、みんな二の次なんや。今、地元の人は愛知川に、全然目が向いてない。だいたいふるさと言うたらきれいな山と川がありまして……となるやろ。それが愛知川には全然ない。見た通りダムにより濁った水で。今年私も孫と一緒に泳ぎに行ったんやけど、ええカッコしたろと思って泳いだら、もうTシャツがどろどろやわ(笑)。ほんなとこで泳げなんて言われへんわ。昔やったらね、アユがおるところに石をブワーッと投げるやん。すると2、3匹浮いてくる。それを拾って家で食べることができた。そういうことが全くなくなったので、川離れが甚だしい。だからね、あと何年かして、愛知川に美しい水が流れたらええな思うてん。私ももう75歳ですからね。その目処さえついたらええな」
渋川の水の清らかさ、ビワマスの力強さを多くの人が目の当たりにするほどに、本流・愛知川の白く濁った流れが気になってゆくことだろう。川なんてこんなもの……ではなく、川は元々、こんなにも美しいものだったのだと。



魚道開通!ビワマスの道がつながった
波打ったU字溝に木板を等間隔にはめていくと、自然の川の段差のようなステップ・プールの連続が作り出された。間隔が広いと十分に水かさが上がらず、間隔が狭ければビワマスが助走するスペースが生まれない。頼るのは前年までの経験だ。V字に折り返す「踊り場」は魚道を上るビワマスにとって大切な休憩所で、広めのプールとなっている。元々はプラスチック製のパイプを組み合わせて作っていたが、川の上手にある牧場のご主人が木製の樋を手製で作ってくれた。これにブルーシートを張って水漏れを防ぐ。この重要な箇所の調整には、琵琶湖環境科学研究センターの佐藤祐一さんが奮闘していた。佐藤さんは野洲市の家棟川で2015年より行われている「家棟川・童子川・中ノ池川にビワマスを戻すプロジェクト」に関わる簡易魚道づくりの先駆者で、渋川にその経験を注いだ。多くの人が力を出し合い、少しずつ、ビワマスにとって良い環境づくりがつながれているのだ。


村山組合長の合図で、作業のために水の流れを止めていた土のうが取り除かれた。皆の視線が流れゆく水に注がれる。U字溝に水が注ぐ。ひとつのプールに満たされた水は、すぐ隣のプールへ注ぎ、次々と魚道に水が満ちていく。流れ込む水の濁りが少しずつ取れ、清らかな透明になった。斜めに切り落とされた木板を乗り越える水が陽の光を受けて艶やかに光の筋を引いている。その水がついに、堰堤の下流につながった。皆の手で今年も、ビワマスの道をつなげた。



