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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
暴れ天竜に挑んだ男 金原明善(3)
なぜ、金原明善は全財産を暴れ天竜に捧げたのか?
 たびたび洪水を引き起こし、流域の人々を苦しめた天竜川。「暴れ天竜」とも呼ばれるこの川に全財産を投げ打った男がいる。  それが、浜松出身の事業家、金原明善だ。  堤防修繕工事を始め、天竜川の洪水を防ぐためにあらゆる事業を行った。しかし、「堤防を作っても、山が荒れていてはイタチごっこだ」と考えた明善は、植林を手掛けるようになった…というのが、この前号(第80~81回)までのお話だ。  天竜川を守るためとはいえ、山林経営はお金がかかる。その事業資金をつくるために東京に金原銀行を開いた。そう教えてくれるのは、金原明善の玄孫であり、明善記念館の館長を務める金原利幸さんだ。  「明善は銀行以外にもさまざまな事業を行っており、木材を輸送するために始めた運輸業もその一つです。ちょうどその頃、東海道線が全線開通認め、明善は山から伐り出した木を天竜川と東海道線で運ぶことにしたのです。天竜運輸は木材だけでなく、製紙や鉱石の運輸も手がけており、多い時では8万2,000人もの従業員がいました」  その後、明善が手掛けた運送会社は第二次世界大戦中の国策により、日本通運株式会社と合併されたという。
優れた事業家だった明善は、倹約家でもあり財布も封筒も新聞で自作したという。
明善の妻・玉城は芸術家との親交があり、明善の人脈を広げることになった。
 さまざまな事業を手掛けて成功させた明善だが、その起点にあったのはいつも天竜川だった。「自分で手掛けた事業が軌道に乗ると、人に任せる。その繰り返しでした。一方、本人は粗食で服も着たきり雀と、非常に倹約家でした。これを見てください。新聞紙で作った封筒なんです。明善が愛用していた財布も、新聞紙を折って自作したものでした」  裕福な家に生まれ、商才にも恵まれた金原明善。蓄財して贅沢に暮らす道もあったはず、 それなのに全財産を投げうってまで暴れ天竜に挑んだのはなぜなのだろう。  明善の玄孫である金原利幸館長がこう答えてくれた。「明善は14歳から19歳にかけて大病を患いました。死を覚悟しながら助かったことで、人のために生きようと決意したのです。それから、ここ浜松の地域性もあるでしょうね。浜松は二宮尊徳が説いた報徳思想が非常に根強いうえ、やらまいか精神が強いんです」  「やらまいか」とは、この地域の言葉で「やってやろうじゃないか」という意味を持つ。「国を富ますにはみんなが稼げることが大切だ」という信念でチャレンジを続ける明善を支えたのが、妻の玉城(たまき)だった。  「玉城を嫁に迎えると決めたのは、明善の母なんです。明善の母は、自分の従姉妹を夫(明善の父)の後妻にすること、その娘である玉城を明善の妻にすることを言い残して亡くなりました。玉城なら我の強い明善についていけるだろうと思ったんでしょうね」  ただし、玉城はただ従順なだけの妻ではなかったようだ。  「画家であり書家でもあった玉城は、いざとなれば自分が夫と家族を食べさせていこうという覚悟があったようです。亡くなった時は自分独自の財産があったほどですから。また、玉城は芸術家や文化人とも交流があり、明善の人脈が広がるきっかけにもなりました」
教科書に載る偉人が栄誉を辞退した理由
 人に恵まれ、人を大切にしながら、暴れ天竜に人生をかけた金原明善。85歳で歩けなくなった彼は、籠に乗って山の様子を見に行くことがあったようだが、多くの時間を割いたのが、書道だったという。  当時の教科書に載るほど有名人だった明善の書は喜ばれた。そのため、自ら始めた出獄人保護事業の寄附金を募った際、返礼として自らの書を贈ったのだという。明善は出獄人保護事業を日本で行った人物としても知られているのだが、この事業を始めたのも、やはり天竜川の治水工事がきっかけだ。  「明善が天竜川の堤防修繕工事を行っていた時のこと。岡本健三郎が政治犯として投獄されました。彼は、明治元年の大洪水後に、天竜川の改修工事を実現するため、明善と一緒に寄附金集めに奔走した旧土佐藩士です。一緒に投獄されていた川村矯一郎を岡本に紹介された明善は、出獄した川村を治水事業で雇うことにしたのです」  岡本や川村から、監獄の待遇や出獄後に職を得る難しさを聞いた明善は、出獄人の更生保護や就職をサポートする出獄人事業を始めた。  「出獄人保護事業は当初、助成金で事業を行っていましたが、助成金に頼るだけではなく、同じ志を持つ個人から寄附してもらおうと考えたのです。というのも、事業に納得してもらわなければ、寄附はしてもらえませんよね。つまり、出獄人保護について多くの人々の理解してもらうためにも、明善は寄附という形にこだわったのです。時間を惜しんで揮毫しており、政治家などが訪ねてきても、手を止めずに対応したそうですよ」
明善記念館に残る明善の書。出獄人事業の寄附金を募るために書かれたもの。
10代で大病を患った明善は社会に尽くし、1923(大正12)年に92歳で永眠した。
 天竜川治水のため、人のために生きた金原明善は、事業を起こすだけでなく、さまざまな形で寄附を行っていた。  1888(明治21)年には海防費を献金した明善に従五位が授与されることになった。従五位とは華族の嫡男に与えられる位階で、非常に名誉なこと。しかし、明善はあっさりと辞退する。「庶民が華族になるなんて」というのが理由らしい。「受けてくれないと困る」「いや断る」というやりとりが明善と政府の間で続き、最終的には明善が短刀を受け取ることで決着したそうだ。  明善の言葉に、こんなものがある。  「人は一夜の宿に対しても茶代を置いて感謝の意を表す。まして生涯世の中の厄介になり且つ幾人もの子孫を残して行くのであるから、この世を去る時には相当の茶代を払ってゆかねばならぬ。茶代は必ずしも金には限らぬ。事業功績は永遠に残る茶代である」  彼が残した、永遠に残る茶代。その最大のものはやはり天竜川の治水工事だろう。  天竜川は、急峻で山間の狭い谷を通り抜けたところで網の目状に広がっていた。大雨のたびに、下流にあるいくつもの派川から洪水が起こっていたという。明善は生前、派川を締め切ることで天竜川の洪水を防ごうとしたが、強い反対にあって実現しなかった。しかし、その強い思いは確かに受け継がれていた。昭和に入って派川が締め切られて天竜川の流れは網の目から一本にまとめられたのだ。  明善の茶代の恩恵に預かる現代の私たちは、いったいどんな茶代を払うことができるのだろうか。そんなことを考えながら広い天竜川を渡り、明善のふるさとを後にした。 撮影=田丸瑞穂 文=吉田渓
参考資料