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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
山の達人たちが語る山の魅力と伝えるべき価値(成瀬川)
九州出身のきのこ名人が秋田の村に移り住んだ
1年のうち5ヵ月は雪に閉ざされ、多い時には2〜3mもの雪が降り積もる、秋田県東成瀬村。たっぷりと積もった雪は山々にしっかりと蓄えられ、水源から下流へと流れていく。この厳しくも豊かな自然と、この村の人々はどう向き合い、時には立ち向かってきたのだろうか。源流探検部としては、ぜひとも知りたいところだ。さっそく、東成瀬村の2人の「山の達人」に会いにいくことにした。 一人目の山の達人の名は、半田克二郎さん。ペンション「きのこ小舎」を営むかたわら、秋田県栗駒国定公園管理員や環境省自然公園指導員なども務めており、森の案内人としても活躍している。そんな半田さんの出身地は、実は大分県竹田市。働き始めた東京で東成瀬村出身の恭子さんと出会い、結婚したという。 「妻の実家に遊びにいくと、義父が山に連れて行ってくれてね。『このキノコは食べられる』『こっちのきのこは毒(ぶす。食べられないもののこと)』と教えてくれるわけですよ。それですっかりハマっちゃってね。東京に戻っても、仕事終わりにキノコ図鑑を見るのが楽しみになりました」
ペンションきのこ小舎の半田克二郎さんは、大分県出身。妻の故郷である東成瀬村の自然に惚れ込んで移住した。現在は秋田県栗駒国定公園管理員や環境省自然公園指導員なども務めている。
高校時代に山岳部に所属していた半田さんは、すっかり秋田の山に魅せられ、家族を連れて妻の実家がある東成瀬村に移住することを決めた。山菜やキノコを採りに山に入っているうちに、自然そのものに詳しくなった。 「この地域の魅力は、手つかずの自然が豊富で、とにかく山が深いこと。奥羽山脈は特に山が深く、行けども行けども、出口がないという感じ。そこがいいんですよ。そして、生き物の種類が豊富です。私はこの地域の生態調査にも携わっているのですが、ここは本当にすごいですよ。調査している人はみんな『ここにいない生き物は、ほかの地域にもいないのではないか』と口を揃えるほど。例えば、トンボ。もともとトンボは南の方に多い生き物ですが、90数種類ものトンボが確認されています」
さまざまな自然が息づく東成瀬村の南東部にあるイワカガミ湿原を訪れると、霧の中から群生するワタスゲが顔を出した。
桃色の花は、湿原の名前に冠されているイワカガミ。
「ぶす」から気づいた山暮らしの奥深さ
半田さんには、今でも心に残っていることがあるという。 「猟師の息子だったオヤジ(義父)は、子供の頃から山に入っていただけあって、山のことにすごく詳しいんです。しかし、ある時、オヤジから『これはブス(毒)だな』と言われたキノコを詳しく調べてみたら、ブナヌメリガサという種類で、食べられることがわかったんです。すると、それを見た近所のおばあちゃんが、『あら!ユキモタシだ、懐かしい!』って言ったんです。山とキノコのプロであるオヤジが知らなかったキノコを、オヤジより20歳ほど年上のおばあちゃんは知っていたんですよ。『昔はうちの父ちゃんが採ってきて、よく食べたんだ。どこさあった?』って。この話を聞いて、昔は今よりもっといろいろなものを山から採ってきて食べていたんだなと思いましたね」 半田さんは、「オヤジ」や年配の方々の話から、山や自然との付き合い方を知ったという。 「村の人々は、来年も山菜やキノコが採れるように、採りながらも守るんです。けれど、ここを訪れる人の中には、そうした自然との関わり方を知らず、採り尽くしてしまう人もいます。最近、この土地ならではの文化が急速に失われています。今のうちに、村のお年寄りから昔ながらの文化や知恵、知識を聞いて、きちんと記録しておかなければと思っているんです」
美しい里山の原風景が残る東成瀬村。山の恵みを享受しながら、山々が生み出す水で田畑を作る。そんな源流の村の暮らしには、さまざまな知恵や文化に支えられている。
父から学んだ鉄砲ぶちの生き方
もう一人、東成瀬村には昔ながらの生業を受け継出で入る夫婦がいる。ペンション「お山の大将」を経営する高谷和道さんと聡子さんだ。和道さんと聡子さんは幼なじみの夫婦。この二人には、「父が大工であり、猟師である」という共通点がある。聡子さんと結婚した25歳の時、和道さんは狩猟免許を取得したそうだ。 「秋田というと『マタギ』が有名ですが、僕らにとってマタギは専業猟師というイメージ。この辺りは兼業が多く、そういう猟師を『鉄砲ぶち』と呼ぶんですよ。だから、僕も鉄砲ぶち、ですね」(和道さん)
ペンション「お山の大将」を営む高谷和道さん・聡子さんご夫妻。ともに東成瀬村で育った二人。どちらも「父が大工で鉄砲ぶち」だったため、小さな頃から猟が暮らしの一部だった。
夫婦でペンションを経営しながら、猟期に熊(ツキノワグマ)や鴨、雉などを獲るのだという。合間には、田畑でお米や野菜も作る。そんな生き方は、源流探検部から見ると、「兼業」というより、「万能」に見える。 「鴨猟の猟期だけは11月1日から1月3日までですが、11月15日から2月15日までは、熊でもウサギでもイノシシでも山鳥でも獲れるんです。これまで秋田にはいないとされているニホンジカも、最近では見かけるようになってきました。猟では、冬は雪の上の足跡を、春先は解けた雪の上の足跡を追って行きます。熊なら熊の好きな道があるんですよ。少なくとも5人、多いと7〜8人で猟に行きますね。最近はライフルや200〜300m先から狙えるスコープがあるので、一人でも猟はできるんです。けれど、仕留めた時に動物を下ろすのが大変なので、一人で猟に出た仲間から、『手伝いに来てくれ』と呼ばれるんですよ」(和道さん) 隣で話を聞いていた聡子さんが、「狩猟免許を取ったばかりの頃の夫は、仲間が行けない時でも、猟に行きたがったんですよ。私も随分付き合わされました」と明るく笑う。しかし、そこは鉄砲ぶちの娘。ただついて行くだけではなく、山鳥を追い立てる役をしっかり果たしていたそうだ。 猟期に獲った熊や山鳥などの肉はすばやくさばいて冷凍保存し、ペンションの食材として使う。調理担当は聡子さんだ。 「熊や山鳥の肉を鍋にしたり、キジのロースを焼くことが多いですね。熊の肉は特に、5時間ほどかけてじっくり煮るのがコツです。熊の鍋が食べたくて、毎年東京からいらっしゃるお客さんもいるんですよ。熊の鍋の味付けは、昔ながらの味噌味です」(聡子さん)
和道さんが仕留めた熊熊の肉を使った「熊カレー(1,000円)」も販売中。ごろりと大きめにカットされた熊の肉は、柔らかくなるまで煮込まれている。熊の肉は臭みがほとんどなく、スパイシーなカレーと馴染んで食べやすい。
尊敬される父親であり続ける生き方
この辺りには、「ドンガ汁」と呼ばれる郷土料理があるという。これは、熊の骨つき肉を入れて煮込んだ味噌味の鍋だそうだ。 「ドンガドンガと肉を切って入れるからドンガ汁だって聞きました。熊を仕留めた時、仲間同士で肉を取り分けて、余った骨つき肉を鍋にして反省会をしていたそうですよ。ただ、骨つき肉は食べにくいので、お客さんに出す鍋にはきれいに切った骨なしの肉を使っています。村の人に喜ばれるのは、美味しい熊の手の部分。今は鉄砲ぶちが減っているので、村の人でも食べるチャンスが少ないんですよ」(和道さん) 何時間も山の中を歩き続け、生き物と対峙し、その命を余すところなくいただく。この村の人々はそうやって暮らし、そして生命をつないできたのだ。 しかし、この土地の生業とも言える鉄砲ぶちの数は減っているという。猟友会の会員はかつての40人が20人に減り、60歳以下の会員は和道さんを含めて3人しかいないという。その一方で、山から里に熊が下りてくるケースは増えている。狩猟者が減っていること、山の環境が変わっていることが関係しているのでは、という。 「熊はブナグリ(ブナの実)が大好きで、器用に皮をむいて食べるんですよ。そのブナグリのできが悪い年は、トウモロコシやイネなど、人里の食べ物を狙うんです。熊に狙われるのは、山からり下りてきて、すぐに入れる田畑ですね」 村役場でも、山と民家の間にある林の間伐を行い、見通しをよくして熊が近寄らないようにしているが、それだけでは追いつかない。そのため、和道さんたちが頼られるのだ。 村では最近、狩猟免許の取得費用の補助(6万円)を行っており、さっそく31歳の男性が補助を受けて狩猟免許を取得したそうだ。
総面積の93.1%が山林という東成瀬村には手付かずのブナ林が残っている。ブナグリ(ブナの実)は栄養価が高く、熊の大好物。しかし、ブナグリの出来不出来には毎年波があり、ブナグリの出来が悪い年は特に、食料を求めて熊が里に下りてくる。
子供の頃から父の猟について行っていた和道さんだが、今でも緊張するという。 「熊は怖いですよ。どこに隠れているかわからないし、ぶった(打った)後も、ちゃんと仕留められたことを確認するまでは怖いです。何より、絶対に誤射があってはいけませんから。夏は葉が生い茂って見通せないので、熊が出たと言われても猟銃は使わず、罠を使うようにしています」(和道さん) 和道さんたちの技術と経験は、食料を調達するためだけでなく、村の人々を守るために活かされているのだ。 そんな和道さんにとって、心強い存在となりつつあるのが、ともに中学生になった二人の息子さんだ。和道さん自身が父に連れられて子供の頃から猟に同行していたように、猟にも連れて行き、肉をさばく技術も教えてきた。 「最近では、山鳥を追う役を子供たちがやってくれます。『俺、いいところに飛ばしただろ?』って得意げに言ってくるんですよ。だから、僕が仕留められなかった時は、『なんで逃しちゃうんだよ!』って息子たちに怒られます」と和道さんは笑う。 母である聡子さんは、和道さんと息子たちの関係性をこんなふうに話してくれた。 「夫が獲ってくる熊や山鳥などの肉は、家族にとって何よりのご馳走。子供たちも、美味しいものを食べたい一心で猟について行くんです。二人とも中学生になりましたが、今でも父親のことが大好きですね。猟に連れて行ってもらいたいものだから、今でも父親の言うことはよく聞くんですよ」(聡子さん) 息子さんたちにとって、父はヒーローなのだ。父の背中を見て育った息子さんたちは、学校の自由研究で、「マタギについて」や「なぜ熊が里に出るか」をテーマに選んだそうだ。息子さんたちにとって、熊の存在も、生命をいただくリアリティも、生活の一部であるということだろう。 父から息子に受け継がれていく、村の生業の知恵。それこそが、これから先も源流の村の自然と人々を守っていくに違いない。