TOP
ページトップへ
未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会 ~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
多摩川源流域から発信し続ける源流文化
汚れた川と運命の再会、その魅力の虜に
 人は、何かを見ているようで、意外と見ていないのではないだろうか。例えば都会の雑踏では見知らぬ人の群れは風景の一部のように感じられたりする。それは自然の中でも同じで、興味を持たなければ、種類の違う木々や草花の集まりも「緑の塊」としか感じられなかったりする。けれど、意識を向けて目の前の風景を見るだけで、雑踏の中で知った顔を見つけたり、緑の塊に見えた森で木々の葉の違いや美しい鳥に気づくこともある。すると、その場所は、自分にとってかけがえのない場所になる。  多摩川源流研究所所長である中村文明さんは、源流とそんな出会いをした人だ。以来、四半世紀以上にわたり、多摩川源流域の魅力と重要性を発信し続けている。  中村さんの出身は、宮崎県の大淀川流域だという。山や川で遊びながら育ち、中央大学進学を機に上京した。多摩川源流域の魅力に取り憑かれた中村さんだが、多摩川との出会いは決していいものではなかったそうだ。 「下宿先の武蔵小杉から東急東横線で大学に向かうと、多摩川を通るんですよ。当時は高度経済成長期で多摩川は汚れていて、電車が通りかかる調布堰には泡が溜まっていました。開いた窓からその泡が入って、とても臭くてね」  時が経ち、眼の病気を患った中村さんは奥さんのご実家がある山梨県塩山市(現:甲州市)に移住した。 「近所の診療所の先生が多摩川最上流の一之瀬高橋に連れて行ってくれたんです。そこで再会した多摩川の清冽な流れにびっくりしちゃってね。『これがあの多摩川!?』って。それ以来、妻と娘二人を連れて、一之瀬高橋を訪れて、山ウドを採ったり、花の写真を撮ったりするようになったんです」
多摩川の源流域に魅せられ、その魅力を発信し続ける多摩川源流研究所所長の中村文明さん。「多摩川の最初の一滴を見に、嫁さんを連れて笠取山の水干へ行ったこともありました」
 噂を聞きつけた市役所の担当者から、「地元で行われる源流サミットで写真展をやって欲しい」と頼まれた。花以外の写真も飾ろうと源流域に入った時、運命的な出会いが訪れた。 「忘れもしない1994年7月18日10時、訪れた竜喰谷の美しさに度肝を抜かれました。以来、源流の虜になったのです」
長老が教えてくれた源流域の真実
 学習塾を経営していた中村さんは、朝から源流を歩き回って14時になると家に戻り、夕方から学習塾で教える日々を過ごした。そこまで中村さんを惹きつけたのは、源流の自然とともに、そこに残る人々の暮らしと歴史の痕跡だった。 「源流にいくつもある滝のすべてに名前があり、きちんと意味があるんです。例えば『下駄小屋の滝』は杉やサワグルミの群生地のそばにある滝。そこに小屋を建て、庶民の下駄の材料となる杉やサワグルミを玉切っていたからその名前がついたんです。印象的だったのは『セングの滝』。地図に『たどり着くまで難所続きだから千苦の滝』と書いてあったので、地元の長老にそう話したらすごく怒られたんです。『そこに滝壺はあったか? なかっただろう? そこは千苦の滝じゃない。千工の滝だ』って」  実際、中村さんが見たセングの滝には滝壺がなく、落ちた水は岩盤に当たってしぶきをあげていた。長老はこうも教えてくれたという。昔は山から切り出した木は川を流して下流に運んでいたが、滝壺がない滝で木を落とせば木が傷んでしまう。そこで、修羅を組み、二股の木を並べて樋のようなものを作り、滝の上から下へ材木を下ろしたそうだ。 「つまり、千人の工(たくみ)が必要だった滝だから、『千工の滝』。命をかけて頑張った人がいたことが、その名前に込められているんです。この話を聞いた時、頭をガーンと殴られた気がしましたね。知ったかぶりはいけないな、歴史や文化の全体を知らなければいけないなと。そして、源流文化を子供達に伝えなければいけない、と思ったんです」  それから5年間かけて谷という谷を歩き回り、昔から伝わる地名などを細かく記した「多摩川源流絵図」を作り上げた。これが評判となり、今度は小菅村から「源流絵図の小菅版を作って欲しい」と依頼されたのだ。
源流域をコツコツ歩いて仕上げた「多摩川源流絵図」。これを見た役場から「小菅版も作って欲しい」と依頼を受けたことが、源流の村との長い付き合いの始まりだった。
 源流の村づくりを進める小菅村とともに多摩川源流研究所を設立した中村さんは、徹底的に研究し、情報発信した。そして、もう一つ行ったのが、源流の楽しさを体感できる「源流体験教室」だ(源流体験教室は現在、「NPO法人多摩源流こすげ」が実施している)。 「源流域の中でも水温が比較的高い小菅村は、源流体験にぴったりなんです。源流体験ではまず、子供には『川は楽しいけれど、危険と隣り合わせです。自分の安全は自分で守ること』と話します。そして、保護者の方には『手を出さないでくださいね』とお願いします。そして、実際にヒヤヒヤする場所を歩いてみると、子供はすぐにコツを覚えるけれど、保護者は子どもを守るどころか、自分を守るので精一杯だったりするんですよ」
源流に来ればわかることがたくさんある
 源流を守ることは、水の源を守ること。江戸時代の人は、その重要さにすでに気づいていたという。 「人口が100万人を超えた江戸では飲み水が足りなくなり、幕府は多摩川から取水する玉川上水を作ったのです。それだけではありません。多摩川源流域の森を保全することで、水を源から守ったのです」  しかし、明治維新で近代化が進むと大量の木材資源が切り出され、源流域の山はたちまち荒れた。すると、多摩川に頼っていた東京では飲料水や灌漑用水が不足する一方、大雨による洪水などの危険が高まってしまったのだ。それを防ぐため、多摩川源流域は東京都の水源林として守られることになったのだ。 「多摩源流域は東京都の水源林ゆえに開発から守られ、古い地名なども残っていました。自然の奥深さが文化や歴史を守ってくれたのです。源流域で暮らす人々は、役所や会社に勤めている人でも、畑仕事や山仕事、炭焼きなどあらゆることをします。だからこそ、知恵や技術が培われ、伝えられてきたのです。そんな源流文化には計り知れないほどの価値があるのです。小菅村の長老は、森の豊かさを『コメデェ(米代)』という言葉で表します。山に行けば木を切れるし、猟もできる。そこに行けば米代になる、という意味なんですね」
源流の郷・小菅村では、山は炭焼きを始めとした林業や猟など、生業の場であり、豊かさの象徴だった。
 「コメデェ」というたった一言に、源流の暮らしや自然との関わりが込められている。これはまさに源流文化だ。しかし、生業が変わり、人々の暮らしが変わった今、源流の自然と文化をどう守っていけばよいのだろうか? 「それにはまず、その土地で暮らす人々が、源流文化の魅力や価値をつかみ、発信することが大切なのではないでしょうか。さらに、源流文化を社会的に支えていくことも必要です。山の日や海の日があるように、源流の日を作って、源流の魅力を発信するのもいいですね」  中村さんがスタッフとして携わる全国源流の郷協議会も、地域と地域を結びつけ、源流の重要性を広く知ってもらうための手段の一つなのだろう。 「源流域だけで頑張るのではなく、流域の方に協力してもらい、源流域の自然や文化の魅力を可視化することが大切です。源流域が良くなれば、下流域も良くなります。下流域に住んでいる方は、水を使う時にぜひ、源流域に思いを馳せてみてください。そしてぜひ、源流域の自然を体感してみてください。水も土も木も、そして人間の営みもすべてつながっているということが、実感できますよ」  水の源は、生命の源。どこで暮らしていたとしても、すべての人間の営みは源流域につながっている。それは、誰にとっても他人事ではない。源流探検部もまた、自分の暮らしとつながる場所として源流の自然を見つめていきたいと思う。
参考資料
  • 「源流白書~源流の危機は国土の危機~ 源流再生に関する国民へのアピール」(全国源流の郷協議会)