良い木を求めて各地に散らばった木地師
年が明けて初めて訪れた、多摩源流域の小菅村。雲一つない空はどこまでも澄んでいて、空気には真新しさが感じられた。
真っ青な空とは対照的に、冬の山々はエネルギーを溜め込んでいるかのように色を抑えている。
木を育み、水を生み出す山々に囲まれたこの村の人々は昔から豊かな自然の中に生業を見出し、暮らしてきた。わさび栽培や川魚の養殖、林業や猟といった具合に。そして、村の面積の95%を森林が占める小菅には、「木地屋」という屋号を持つお宅が一軒だけある。屋号の由来はもちろん木地師だったから。
木地師とは、木材からお盆やお椀、杓子などを作る職人のこと。地域によっては、漆器を塗る塗り師まで兼任する人もいるようだが、木地師と言えばたいていは木目をそのまま残した木工製品を轆轤(ろくろ)などの道具を使って作る人のことを指す。
日本各地の木地師のルーツは滋賀県東近江市と言われている。東近江市の小椋谷と呼ばれていた地域に平安時代に惟喬親王が政争から逃れてやって来た。ろくろを発明して広めたとされる惟喬親王は、この地域に今も残る大皇器地祖神社と筒井神社に木地師の神様として祀られている。木地師たちは惟喬親王の重臣だった小椋実秀を祖として小椋姓を名乗るようになり、やがて良い木を求めて全国へ散らばっていったということらしい。
惟喬親王に縁のある木地師には、各地を自由に歩き、自由に木を切ってよし、というお墨付きが与えられていたそうだ。
さて、小菅村唯一の木地屋さんこと亀井進さん。昭和9年生まれの亀井進さんのご先祖様も、滋賀県から始まった小椋姓の木地師の家系である。場所を移動する木地師は渡り木地と呼ばれており、亀井さんの祖先は信州から大月にやって来た「信州渡り木地」だった。
小椋馬之丞さんというご先祖様が明治11年に大月から小菅村に来て、その孫が青柳家に養子に入ったらしい。その後、進さんの祖父の代から亀井姓となっようだ。
「自由に開いて見ていいよ」
進さんは、福の神のような笑顔で巻物がたくさん入っている長細い箱を指差した。探検隊メンバーが恐る恐る巻物を開いていくと、「惟喬親王」の文字が飛び込んできた。承久2年(1220年)に書かれた「惟喬親王縁起」だ。これは、天皇の座を弟の清和親王に奪われ、小椋谷に匿われた惟喬親王の足取りや歴史が書かれたものだ。他にも、織田信長文書や豊臣秀吉文書などがあるそうだ。これらは木地師として自由に山々を歩いて木を切るために役立てられたのだろう。
良い木を求めて各地を移動した木地師。その神様とされる惟喬親王の足取りや歴史を書いた「惟喬親王縁起」など、貴重な文書が亀井家には残っている。
「(亀井家は)最初はお椀なんかを作っていたらしいよ。おじいさんの代には、天皇陛下にお椀を献上したこともあったらしい。親父は臼をよく作っていたね。臼は売れたけど、完成するまで3~4日はかかるものだから」
進さんと中学校の同級生だったという進さんの妻・千江子さんは、通学途中に見た風景を今も覚えているという。
「学校の行き帰りに、お義父さん(進さんの父)の作業場の前を通るから、お父さんが臼なんかを作っているのをよく見たわ」
将来、まさかこの家に嫁ぐことになるとは考えなかった頃の思い出だという。
昭和9年生まれの亀井進さんと妻の千江子さん。二人とも、進さんの父・勝治さんが木地師として働いていた姿をよく覚えているという。
木の魔術師の最後に作った作品とは
実は、進さん自身は木地師という職業を継いではいない。
「機械化やらなんやらで、木地師の作るものは売れなくなっていたからね。おれは運転免許を取って運転士になったんだ。救急車の運転から始まって、最後は高校のスクールバスの運転士を25年間やったんだ」
生計を立てる手段として運転士という職業を選んだ進さんだが、木地師としての技術は身についている。
「臼やなんかを作る時、親父の手伝いをしていたからさ」
木地師の仕事は、資材となる木を山で伐り倒すことから始まるという。
「伐った木を臼の高さと同じ長さに玉切るでしょう。切断面に竹を杭みたいに打つの。そうすると、転がすことができるからね。20cmくらいの道幅があれば、山から下ろすことができたんだよ」。
進さんの父・勝治さんは、臼や鉢を作ることが多かったそうだが、目的に合わせて使用する木を変えていたという。
「臼は硬い木でないとだめ。このあたりでは、雑木で一番硬いヨギソと呼ばれる木を使うの。蕎麦を打つ鉢なんかを作るときは、栃の木。栃の木は柔らかいし、割れないからね。それに、乾くと軽くなるから」。
木の種類だけでなく、部位によっても、使う場所と使わない場所があったという。
「鉢を作る時、まず山で木を切って荒取り(皮むき)をしてから、木を下ろしてくるんだけど、丸太の芯の部分は使わないの。芯はすぐに割れちゃうから、丸太の断面の中心を正三角形に残して、ヨキ(斧)で切る。その切り落とした部分で鉢を作るんだ。芯を正三角形に残すように切るから、一つの丸太から三つの鉢が取れるわけ」。
丸太から切り落としたら、今度は釿(チョウナ)と呼ばれる柄の短い手斧で木をくり抜いてくぼみを作り、さらに左ガンナで美しいくぼみを形作っていく。
左ガンナとは、柄の先に弧状の刃が付いているものだ。左手は柄の根元(刃のすぐ上)に、右手は柄の上の方に置く。左手はほとんど動かさず、右手を動かして使う。つまり、テコの原理で刃を動かして削る。右をテコのように動かして使えるよう、左に刃がついているため、左ガンナと呼ぶらしい。
ヨキ、釿、左ガンナは、どれも数種類ずつ揃っている。例えば、左ガンナ一つ取っても、刃の大きさや角度が少しずつ異なっているのだ。これらを使い分けることで、丸太から思い描いた通りの形を削り出していたのだろう。まるで、木の魔術師だ。
左ガンナは左手を支点にして右手を動かし、テコの原理で木を削る。
「これね、お義父さんが『最後に』って私に作ってくれたの」
そう言って千江子さんが出してきてくれたのは、ひと抱えほどもある木鉢だ。小菅村の名物でもある蕎麦打ちに使われるもので、裏には「昭和52年」と書かれていた。
先ほど見せてもらったヨキや釿、左ガンナで一刀一刀、丁寧に彫り削っていったことがわかる。
「ずっとしまっていたから、ちょっとカビ臭いんだけどね」
千江子さんはそう言っていたが、義父からの贈り物を見せてくれたその顔は、誇らしげで、それがとても羨ましかった。
進さんの父・勝治さんが、木地師として最後に作ったのは、息子の嫁である千江子さんに贈った鉢。小菅村の特産の一つである蕎麦打ちに使われる。
亀井さんの家から帰る途中、白沢地区にある源流大学の前を通りかかると、クリスマスツリーのようなものが広場にそびえ立っているのが見えた。近づいて見てみると、円錐状に積み上げた松や杉の枝に、正月飾りがびっしりと付いていた。このクリスマスツリーのようなものは「お松」と言うらしい。
1月7日になると各地区に姿を表す「お松」。松や杉の枝を円錐状に積み重ねて正月飾りを付けておき、小正月に燃やすという、冬の風物詩。
小菅村では、毎年1月7日に各地区で正月飾りを引っ張ってきて、このお松を作るそうだ。昔は門松をまとめてお松を作ったようですが、今は門松を立てる家も少なくなったので、桧の枝も使ってお松を作っているという。小菅で生まれ育った小菅村役場 源流の村づくり推進室の青柳慶一さんが教えてくれた。
「てっぺんにだるまを置いたり、二つ作ってみたり、地区ごとにそれぞれ特色があるんですよ。小正月にお松を燃やすのですが、一緒に団子、書初めを燃やしたりします。この団子を食べるとその年は風邪をひかないとか、書初めを燃やすと習字がうまくなるなんて言われています」
木で生活用品を作り出し、木に不浄を払ってもらう山の暮らし。源流の村に暮らす人にとって、木は単なる植物ではなく、生きていく上で欠かせない存在なのだろう。山でひっそりと息をひそめる冬木立が再び若葉を揺らす日が、今から待ち遠しい。
参考資料
- 小菅「文化再生研究室」調査報告書 平成21年度 地方の元気再生事業