「もしかしたら」を追求する、釣りに行く前の時間が一番楽しい

マグロを釣る、というのは大仕事だ。釣りを知らない人でもその過酷さはイメージできるし、釣りを知っている人ならば必要なスキルや道具の準備など、大変な挑戦であることを知っている。
伊藤彰さんは最近、マグロ釣りにのめり込んでいる。ジギングで大物を狙いに、しばしば愛媛県愛南町を訪れている。香川県に住む伊藤さんにとって、同じ四国とはいえ片道4時間かかる遠征だが、釣りのために誂えたキャンパーバンで車中泊をするのがいつもの流れだ。

そのバンを覗かせてもらうと、入念に準備・整頓されたタックル一式が目に入る。前夜までに万全の準備を整えてきたことが伝わり、釣りに一切の妥協をしない人物であることがうかがえる。
多忙を極める青年実業家の人生と釣り
伊藤さんは若き実業家で、日本はもとより世界各地を飛び回る日々を送っている。北海道にいたかと思えば、ハワイにいたり、フランスにいたりする。
様々な事業を手掛ける中、近年は空間デザイナーとしての活動に注力しており、その独自の審美眼から生み出される世界観に魅了される人が後を絶たない。

多忙な彼は「今月は今日しか釣りができないんです」と笑う。
だからこそ、港近くでの車中泊を選んだ。限られた時間を最大限に活かすために、前夜には港でアジングやシーバス釣りを楽しみ、夜明け前には馴染みの船長がいる遊漁船建鳳丸に乗り込んだ。
狙うは、キハダマグロだ。

高知県の南端、足摺岬沖は好漁場として知られる。愛南町からは約2時間の乗船時間になるが、伊藤さんは白々と夜が明ける中、海岸線の風景に見入っているようだった。


ポイントに着くと、手慣れた様子でジグを投入。今日は魚のいるタナが深いようで、400gと重いジグを使用。重さを感じさせないリズムでシャクっていく。船長とのコミュニケーションも円滑で、やるべき釣りが明確になっている人の手さばきだ。

しかし意外にも、伊藤さんがこの釣りを始めたのは最近のことだという。本来は、もっとライトで繊細な釣りの方が性に合っているのだとか。人生最初の釣りの記憶は、祖父に連れられていった近所のフナ釣り。それが、現在まで続く釣りへの情熱の始まりとなっている。
「3歳くらいの時に、釣りって面白い!となりましたね。それ以来ずっと、いまだに熱量が下がらない(笑) 釣りは人生の中で熱心にやり続けている唯一のことです」

幼少期のフナから始まった釣りは、その後、大ブームだったバスフィッシングに繋がっていく。トーナメントに出場するほどまでのめり込んだが、伊藤さんは、魚を釣り上げることそのものよりも、魚をかけるまでのプロセスに魅了されていたのだと振り返る。
「あそこに魚がいるんじゃないかって仮定して、行動して、結果が出るというのが釣りの中で一番好きな部分です。それはどの釣りにも共通しています」
釣りに行く前の時間が一番楽しい
だからこそ伊藤さんにとって、釣行前の時間も実は釣りの大きな楽しみになっている。

「形から入る性格なので、道具も吟味しながら揃えます。この道具をこう使うぞ、ってイメージを膨らませながら準備しているときの喜びが大きいんです。正直、釣りに行く前の時間が一番楽しいかもしれません。だって釣りに行ってしまうと釣れないことも多くて、しんどいじゃないですか(笑)」
釣りを始めて約3時間ほど。伊藤さんはタックルやジグを頻繁に使い分けて、海からの返事を待つ。サバやハガツオを釣りあげ、ナブラが起きるとすかさずキャスティングに切り替えてソウダガツオもキャッチ。的確に魚を釣り上げていくが、本命のキハダの姿はまだ見えない。
伊藤さんの船上での身のこなしや、釣りの組み立て方はとてもスムーズだ。一見するとジギングに長けた人の動きだが、彼曰く船の釣りは元々あまり好きではなかったそう。
「自分で考えて、自分で動く釣りが好きなんです。バス釣りをやり込んだあとで、どうやらアジがルアーで釣れるらしいと聞いて始めたんです。アジング、という名前で呼ばれ始めた頃でした。ゲーム性の高さにどっぷりハマりました。今も一番得意な釣りはアジングなんです。ショアジギングとか、かぶせ釣りも楽しくて、一時は全部の釣りが同時にできる離島に滞在してこれらの釣りをやり込んでいました。島ごもり、ですね」
人生を通じて様々な種類の釣りを楽しんできた伊藤さんだが、ライフスタイルの変化に伴って釣りも変わってきた。仕事が忙しくなってきて、かつてのように連日釣りをするのが難しくなったのだ。
あんまりハマらなかったジギングにのめり込んだ理由
そんな折、この日も乗船した建鳳丸で初めてジギングを体験した。小さなカンパチが沢山釣れたが、「正直あんまりハマらなかった」という。
「ずっと船で釣りをしていなかったので、『釣らせてくれる感』がしっくり来なかったんです。魚にたどり着くまで自力で頑張るのが楽しいのに。ポイントに着いて『はい、どうぞ』は性に合わないなと。」
しかしどの釣りにも難しさがあり、奥深さがあることは、釣り人なら誰もが知っている。

「ジギングって同じ船で釣りをしていても、周りとの腕の差が如実に出るんですよね。タックルバランスからジグ選び、ロッドの入力まで。こんなに船内でその差が出る釣りは無いなと痛感してのめり込んでいきました」
釣り場まで運んでもらえることは、伊藤さんの元来の性格とは合わなかったかもしれないが、魚に至るまでの探求を突き詰めるという点では理にかなっていた。多忙な生活の中で、時間をかけて魚との距離を詰めるというより、魚のいる場所で口を使わせることに専心する、ジギングの凝縮されたゲーム性が今のライフスタイルと合致したのだった。
「だから一切の妥協はしたくないんです。『もしかしたら』を本気でやれるかどうか。それは人によって違いがあると思います。まぁいいか、と思う人もいるだろうけど、僕は最後まで『もしかしたら』があるかもしれないと思って、道具を準備します。船に持ち込むのが面倒くさいな、とかなりがちですけど、そういう妥協を一切したくない。そうした時間も含めて、準備そのものが楽しいんです」
もしかしたら、が最後にとらえた一匹
「これで最後の流しにしましょう。水深170mに反応出てるよ」
本命の釣果が得られないまま、船長のアナウンスを聞いた伊藤さんは迷わず持ち込んだロッドで一番硬く反発力のあるものを選択。この日ここまでは出番が無かったが、「もしかしたら」で準備していたロッドだった。
「来たっ!」

その硬いロッドが弓なりに曲がった。今日これまで釣ったどの魚とも明らかに違う引き。本命のキハダマグロだ。

重い突っ込みをかわしつつ、数分のファイトを経て10kgほどの美しい魚体がネットに収まった。

「最後に深いタナの指示があったので、これはと思ってロッドとジグを変えました。狙い通りとも言えるし、たまたまとも言えるヒットでした」
安堵した表情で、伊藤さんがはにかんだ。

人生を通じて釣りをしてきた伊藤さんには、まだまだ挑戦したい釣りがある。
「今日釣りしたこのエリアだったら落とし込み釣りもやってみたいですね。テクニカルなジギングもいいですが、単純に生き餌で大物にチャレンジしたい。電動リールではなく手巻きで。あと知り合いにはアユ釣りはやるなって言われてます。奥が深いから君はハマりすぎるぞって(笑)。
でも釣りのスタイルが変わり続けることはいいことだと思うので、人生の中できっかけとタイミングがあればいろいろな釣りに挑戦してみたいですね」
釣りには「フナに始まりフナに終わる」という格言がある。大物志向かと思えば、テクニカルで繊細な釣りにも等しく愛情を向ける伊藤さん。祖父に手を引かれてフナを釣った少年は、マグロを釣る青年になったが、まだまだこの先にもたくさんの釣りと出会うことになりそうだ。

Text :Yufta Omata
Photo: Ryuta Iwasaki