木村 真也 木村 真也

磯フィールドテスター

ISO FIELD TESTER

木村 真也

Shinya Kimura

木村 真也

1986年7月23日 大分県在住
中学生よりウキフカセ釣りを始め、着実に成長。豊富な経験から導かれる適確な状況判断はピカイチ。若くして多数の大会実績を誇る生粋のトーナメンター

SPECIAL INTERVIEW

スペシャルインタビュー

船団に魅せられた⼀本気の夢

幼き⽇の憧憬が⼈⽣の航路を切り拓く。
⽇本屈指の激しい海に、フカセ釣りと⼀本釣りで挑む男のロマン。

木村 真也

磯釣り愛の原点

木村 真也

磯釣りをこよなく愛する⽗の背中を⾒て育った少年期。
佐賀関港で⽬にした漁船団の勇ましき姿が、⼈⽣の潮⽬を変える。

⽗親の趣味は磯釣りで、息⼦の僕のおもちゃはリール。そんな釣り⼀⾊の家庭で僕は育ちました。物⼼がついてからは、ほぼ毎週のように⽗と釣りに出かけていましたね。⼩学1年⽣の頃には、釣り雑誌の磯釣り名⼈たちの勇ましい姿を⾷い⼊るように眺めるほどの「磯釣り⼤好き少年」に仕上がっていました(笑)。ただ当時はまだ⾝体も⼩さく危険だったこともあり、もっぱら堤防で釣りを楽しんでいました。初めて磯釣りに連れて⾏ってもらえたのは⼩学3年⽣の時。大分県佐伯市蒲江のスズキバエで、⽗はそこで30cmクラスのグレを次々と釣り上げました。その⽇、僕は⼀尾も釣ることはできませんでしたが、「グレってすげぇ!」と、フカセ釣りの魅⼒を全⾝で感じたのを覚えています。
幼い頃の記憶として、もうひとつ僕のなかに強烈に残っている原⾵景があります。それは、佐賀関港から⼀⻫に出航していく漁船団の雄姿です。当時は500隻近くの船が⼀⻫に出ていくくらい港は活気づいていて、⽗とともに波⽌場からその光景を眺めていた幼い僕にとって、それはもう圧巻の⼀⾔でした。「戦に出かけていく男たち」と⾔えば⼤袈裟かもしれませんが、それぐらい華々しく、⼒強く、勇ましかったのです。佐賀関の漁師は僕のなかで永遠の憧れとして、その後の⼈⽣において燦然と輝き続け、「いつか僕も漁師になるんだ」と思い続けて⽣きてきました。
やがて僕も結婚し、妻には「定年したら漁師になるから」とは伝えてきましたが、⻑⼥が⽣まれたタイミングでその気持ちが再び強く蘇ってきたんです。当時サラリーマンとしてメーカーで働いていた僕は、「漁師という本当にやりたいことがあるのに、このまま⼈⽣を過ごしてしまっていいのか」と⾃問⾃答。やりたいことに⼀本気で、夢中に頑張って働いている姿を家族に⾒せたい。そんな思いから⼀念発起し、妻が背中を押してくれたこともあって、まったくの経験ゼロから漁師への道を歩むことを決意。32歳の時でした。

  • 木村 真也

    ⼩学⽣のときによく釣りに⾏った地磯。⽊村少年にとって、釣りが何より⼼躍る遊びで、いろんな⿂が釣れる磯こそが最⾼の遊び場だった。

  • 木村 真也

    中学時代は電⾞で釣り旅へ。釣りウェアを着たまま釣り具を背負って各駅停車に乗り込み、⾅杵駅の駅舎で寝て翌朝から磯釣り場へ。⼤好きな釣りのためなら何だってやれた10代だった。

漁船団の雄姿と憧憬

木村 真也

想像をはるかに超える漁師業の厳しさと難しさ。
どんな荒波が降りかかろうとも、憧れの船団の⼀員としての誇りが⼼を奮い⽴たせた。

漁師を⽬指すにもツテがないので、福岡で開催された漁業就業⽀援フェアに参加することにしました。そこで紹介していただいたベテラン漁師の⽅に弟⼦として付かせていただき、幼い頃から憧れ続けた「佐賀関伝統の⼀本釣り漁」のいろはをイチから教えていただけることになりました。この漁法は鈎と⽷だけを使って釣り上げるので、漁網に⽐べて⿂へのダメージが少ないのが特⻑。
シンプルがゆえ、やり⽅、場所、ルールなど決まり事が多く、覚えることは⼭ほどあります。師匠からいただいた修業期間は、わずか⼀年間。にもかかわらず、四季ごとに釣り物は変わりますから、その時期の釣りを学べるチャンスは⼀度きり。⼀年後には独⽴せねばならない。その緊張感のなか、毎⽇必死で海に出ました。「独⽴しても⾷っていけるように」と多少シケていても漁に連れ出してくれた師匠には、感謝しかありません。
⼀本釣りではいろんな⿂種を狙いますが、漁師業の厳しさを痛感したのはブリ漁です。7〜8kgのブリが10本の鈎全部につくこともあり、60歳超えの師匠はそれを軽々と⼿釣りで釣り上げるのに、僕はまったく上げられず……。⼿まめができてつぶれて傷⼝からバイ菌が⼊り、病院で化膿⽌めを塗ってまた漁に⾏くという毎⽇は、想像を超える過酷さでした。鈎が⼿に刺さることも多く、実はすでに指の神経が2本切れて感覚がない状態なんです。そんな時にいつも思い出されたのが、勇ましく出港していく先輩たちの姿でした。⾃分も今その景⾊の⼀部として海に挑んでいるのだということを思うと、痛みなんて吹き⾶んでしまうんです。佐賀関は⽇本屈指の激しい海流で、みんな本当に「命がけ」で⿂を獲っています。⾃分もその⼀員であることへの誇りが、⼼を奮い⽴たせてくれるのです。

  • 木村 真也

    全国的に有名なブランド⿂「関あじ・関さば」も⼀本釣りで釣り上げられ、佐賀関で⽔揚げされたものだけが、その名を冠することができる。速い海流で育った⿂は⾝がしまって美味。

  • 木村 真也

    釣り上げた⿂は帰港後すぐに漁業協同組合で買い取ってもらう。漁獲物はサイズや状態を⾒てその場で値付けされる。大漁の⽇には200匹近く上げることもある、夢のある仕事だ。

磯師と漁師の両輪

木村 真也

磯師と漁師をつなぐ架け橋となるために。
釣りという神様が与えてくれた道を、⼀本気の帆を⽴てて突き進んでいく。

僕には釣りに関する3つの夢があります。釣り師としての僕の夢は、憧れていた磯釣りのレジェンドたちのように、次の世代にフカセ釣りの魅⼒を伝えること。フィッシングショーで「⽊村さんの動画を⾒て磯釣りを始めました!」と⾔われることがあり、本当にテスター冥利に尽きるなと思います。
漁師としての夢は、佐賀関の⼀本釣りという伝統漁法を次世代に継承していくこと。そして「関サバ」「関アジ」というこの街のブランドを守ること。漁業組合員の⼈数も減少していて、後継者を育てていかないと⽇本の漁業は途絶えてしまいます。少しでも漁業界に貢献できるよう、いずれ弟⼦を取れるような⽴派な漁師になりたいと思っています。
そして僕にしかできない使命として思っているのが、釣り⼈と漁師の両⽅の⽴場を理解し、そのつなぎ役になること。釣りは「遊漁」で漁師は「仕事」。釣り場の問題などを考えると、釣り⼈と漁師の関係性のバランスを上⼿くとるのは正直難しい部分も多いのですが、僕はその両⽅の気持ちが分かる存在です。⽇本中探しても、プロのテスターと漁師を⼆⼑流でやっている⼈間はほぼいないでしょう。だからこそ、その橋渡し的な役割を担えたらと思っています。
幼い頃に⽬にした漁師団への強い憧れがあったから、僕は漁師になれた。そして、少年時代に磯を追い求めてひたすら旅した終わりなき好奇⼼があったから、僕はプロのテスターになれた。漁師として残していきたい「⼀本釣り」も、磯師として極めたい「フカセ釣り」も。「釣り」という共通点があるから毎⽇夢中になれるし、前進することができるんです。今改めて思うのは、僕にとって釣りとは、「神様が与えてくれた道」なんだなあと。⼦供の頃からずっと⼀途に向き合い続けてきた「釣り」に感謝と夢を込めて、これからも歩んでいきたいと思います。

  • 木村 真也

    漁師になりたての頃、何時間も海を眺めては潮の流れを読む練習に励んだ。漁師になって得た「広く潮を読む⼒」は、磯釣りの際にも⽣きているという。

  • 木村 真也

    かつては500隻近くの漁船が停泊した佐賀関港も今ではその数も3分の1以下に。幼少期に⾒た雄姿を後世に残すために、⽊村は今⽇も荒波のなかに挑んでいく。