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オフショア
SPECIAL INTERVIEW
スペシャルインタビュー
海人魂を受け継ぐ者。
沖縄の海とともに育ち、
漁師の系譜を継ぐフィッシャーマンが歩んだ航跡と未来の航海図。
仲村 茂樹
漁師一家で育んだ海人イズム

「俺に聞くな、海に聞け」
海人だった祖父の言葉とともに、素潜りで磨いてきた魚への感性。
沖縄県本部町。家の階段を降りれば白い砂浜、目の前はすぐ港。僕は、そんな場所で生まれ育ちました。仲村家は先祖代々、漁師を営む家系。高祖父が明治時代に「仲村組」という漁師団体を創設し、一族は沖縄の大規模追い込み網漁「アギヤー」で生計を立ててきました。僕も生まれながらに漁師になる道が決まっていました。家族も近所も潮の満ち引きに合わせて動く。日々の暮らしと漁が地続きのまま続くような生活が、僕の原風景です。祖父の仲村善栄は一人追い込み漁をする素潜りの達人で、父とともに小さい頃から僕を漁師の後継ぎとして可愛がってくれました。
はじめて漁船に乗せてもらった時のことは、今でも忘れられません。出航5分で船酔いしてしまい、泣いていた僕を父は容赦なく海に“ドボン”(笑)。それでも翌朝には、当たり前のように再び海に出ていく大人たちの背中を見て、負けたくないのか自分でもよく分からないまま、船に乗り込んで海に戻っていったのを覚えています。厳しい父と、陸では誰より優しい祖父。家族の支えが、海人としての僕の反骨心を育ててくれたと思います。
海の上では、理屈より速く潮が動きます。魚も一秒たりとも待ってはくれない。魚の獲り方を祖父に聞いても、口癖はいつも「俺に聞くな、海に聞け」でした。まず海に出ろ。とにかく潜れ。そして失敗しろ——言葉ではなく身体が覚えたことだけが本物になる、という教えでした。海中では当然、声は届きません。右、左、今、待て。すべてがジェスチャーでのやりとりです。次の動きを瞬時に目で見て判断しなければならない状況下で、こちらがもたつけば、魚影は一呼吸で消えてしまいます。陸に上がると祖父は多くを語らず、まるで「海で見たことが答えだ」といわんばかりの顔で僕を見つめていました。無言のやり取りこそ“海に聞け”の核心だったんだと思います。
高校生になって追い込み漁の技術もついてくると、夜の海にひとりで潜ってブダイやミーバイを獲るようになりました。親戚に配るとみんな喜んでくれたんです。それがうれしくて。それでも祖父は、毎日クーラーボックスをパンパンに魚で満たして帰ってくるんです。当時、八十歳を過ぎていたんですよ?すごいなと思う反面、やっぱり悔しかったですね。少年時代に素潜りの追い込み漁を経験したことは、魚の動きや行動パターンを理解する上で役立ち、僕の釣り師人生の土台になりました。
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「仲村組」の祖業は、砂浜から船を出す素朴な漁から始まったという。木をくり抜いた“クリ船”は、やがて木造の小型漁船“サバニ”へと進化。
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ミーカガンと呼ばれる沖縄の追い込み漁で使用する水中眼鏡は、祖父の善栄さんが愛用したもの。善栄さんは28歳で戦役から戻り、戦争で壊滅した地域を漁業で再興した。
魚を見る目と船長としての想い

追い込み漁、養殖業、水族館での仕事。
魚と向き合ってきたすべての時間が、船長としての経験値に結実する。
祖父に認められたい気持ちが強く、漁師として早く一人前になりたかった僕は、家業の追い込み漁業をつぐために石垣島の専門学校に入学し、船の免許とダイビングの免許をとることにしました。しかし、いざ卒業して漁師になろうとしていたちょうどその頃、風向きが変わります。本州からの魚の流通量が増えたことで、沖縄の地元の魚の消費量が著しく落ちはじめ、仲村家が代々獲ってきたフエフキダイなどの単価が10分の1まで落ちてしまい、追い込み漁が商売として成り立たなくなってしまいました。漁師を続けたくても続けられない、それでも魚に関わる仕事がしたい……悔しさともどかしさを抱えながらも、養殖場で働きながら、魚の養殖を学ぶことにしました。数年間でしたが、結果的にそこで魚の生態や捕食行動などについて学ぶことできたんです。その後、「美ら海水族館」の建造開始時のスタッフとして、ジンベイザメをはじめとした水槽で飼う大型魚を捕獲する仕事に携わった時期もあります。大水槽に潜って魚たちに餌をやったり、水槽を掃除したり、水中ショーの仕事を手伝っていたこともあるんですよ。
魚にまつわるいろんな経験を経て、今は「キャプテンズオキナワ」という看板で遊漁船の船長をやっています。追い込み漁、養殖業、水族館での仕事。それらはすべて、「水中での魚の動きを研究する」という意味では共通点があり、魚の群れの動きや怯えの微細な変化を読む訓練として、釣りにも直結していると感じています。「魚が何を恐れ、どこで落ち着くか」を、肌感で掴むことができたからこそ、海を上から見ていても海の中の魚の動きをある程度イメージできるんです。
僕は魚の生態を研究することには思い入れが強くて、釣った魚に標識タグを付けてリリースし、魚の行動パターンや生態を調べる取り組みもおこなってきました。沖縄本島から奄美大島北部海域まで移動したGTや、年魚であるアオリイカの再捕獲に成功した事例がいくつかあり、これらを基にしたデータを参考にして、釣れるスポットや状況などを体系化しはじめているのですが、これがとても興味深くて。この美しい沖縄の海に夢やロマンを求めて乗船してくださる皆さまに、本州では出会えないモンスタークラスの魚や珍しい魚など、沖縄の海の醍醐味を感じてもらいたい。そのために僕は、今まで積み重ねてきた魚に関する経験値と情熱を使うべきだと、今はもう亡くなってしまった祖父も、生きていたらそう言ってくれる気がします。
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美ら海水族館のスタッフとして関わった経験は、釣りとは別の観点で魚に関する発見があったという。いろんな魚の泳ぎや特性を見極めながら、魚を見る目を養った。
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沖縄の海で釣るための知恵と経験を生かし、キャプテンとして乗客一人ひとりに寄り添ったアドバイスを送る。亡き祖父からとった名「善栄丸」に釣り人のロマンを乗せて、今日も沖縄の海を進む。
沖縄の海を未来へ残すために

祖父の記憶にある、戦争で失われた“空白の海”を未来への教訓に。
美しい沖縄の海を残すべく、キャプテンの航海は続く。
遊漁船の船長を始める前に、じつは一時期、神奈川県の飲食店で働いていたことがあるんです。釣り以外の道で生きていくことを考えたこともありましたが、妻と出会い、彼女が理解を示してくれ、背中を押してくれたこともあって、沖縄にもどってガイド業を始めることを決意しました。「家族に恥じない仕事をする」という覚悟が、釣りの道をもう一度歩む上で、より一層大きな力となりました。やはり自分は“海人”だ、と思いを強くしたのです。
数十年前、祖父が活躍していた時代と比べると、沖縄の海は開発により環境が悪化してきたように感じています。透明度の高いサンゴ礁の海は、川から流れ込む養分によってサンゴが育ち、形成されるもの。山・川・海は一本の管でつながっているようなものなので、島の開墾で赤土が流れれば、海は濁りサンゴが傷んでしまいます。農業と漁業が手を取り、流出を抑える工夫を重ねて島全体で環境を守る——それが、海の豊かさを次世代へ手渡す唯一の道だと考えています。
沖縄の海では、戦時中の爆撃で多くの魚が死に、戦後数年間は卵も産まれない時期が続いたと祖父から聞いたことがあります。とくに西海岸の魚が激減し、船を担いで東海岸へ出稼ぎに行ったこともあったそうです。海の恵みは無尽蔵じゃない——祖父の言葉を通して感じたその教訓があったからこそ、この美しい沖縄の海を後世にも残したいという気持ちが僕のなかで強くなってきたのかもしれません。
カラフルな魚たちが優雅に舞い、想像を超えるサイズの大物が潜み、サンゴがたゆたう沖縄ならではの景色。ここは景色の美しさだけでなく、釣り人にとっても果てしない夢が広がる場所です。このかけがえのない海と自然を守り続ける力に、少しでもなれるように。代々受け継がれてきた海人の心を胸に、これからもこの海の未来と向き合っていきます。
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仲村の船で釣り上げた魚は兄が営む釣具店「もとぶつりぐ」に併設するキッチンスペースで料理してもらうことができる。仲村家の親戚一同で、沖縄の釣りを盛り上げる兄弟たちの活動を応援してくれている。
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実父とともに実家の前で。心臓病を患いながらも、96才で亡くなる一週間前まで海に出続けた祖父の船をバックに思い出話に花が咲く。映画「グラン・ブルー」のモデルになった素潜りの神様ジャック・マイヨールと祖父は親交があり、この家に泊まったこともあるのだとか。

