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DAIWA 源流の郷 小菅村
DAIWA 源流の郷 小菅村
豊かな森が水を育み、水がいのちを育みます。
次世代を担う子どもたちに、水の尊さを自ら体感して欲しい、と考えております。
源流の山里、そこに暮らす人々が森林を育て、その森林が生きた水を育み、そして海をも豊かなものへと保ちます。
水がいのちを育む、その源とも言える豊かな森林「源流の郷」をお伝えします。
源流探検部が行く 第10回
山暮らしの生命線を探しに
山暮らしの生命線を探しに
水道ができる前、水はどこから来ていた?

飲み水、洗濯、料理、食器洗い、トイレ、手洗い、お風呂、植物への水やり、打ち水、洗車…。一日の終わりに振り返ってみると、水を使った回数の多さに気づく。これほど水を使う場面が多いことを気にも留めてなかった、今の日本人にとって、水が「使いたい時にすぐに使えるのが当然」のものだからかもしれない。

しかし、日本でも、「手軽に水が使える社会」の歴史は、思った以上に浅い。厚生労働省「水の基本統計」の「水道普及率」によると、現在97.9%の水道普及率は、1950(昭和25)年にはたった26.2%だった。

では、水道が今のように普及していない頃、どうやって水を確保していたのだろうか。そこで今回の源流探検部では、水道が普及する前の「暮らしと水の関係」について、探ることにした。

東京都から車で約二時間の小菅村。山間にある小菅村には、多摩川の源流・小菅川と鶴川という、二つの川が流れている。総面積の95%を森林が占める村内のあちこちには、沢や湧き水が存在する。

「小菅村郷土小誌」によると、水道が普及する前の小菅村では、川から汲んできた水をそれぞれの家で使っていたらしい。けれど、いくら源流の郷・小菅といっても、すべての家が川の近くに建っていたわけではないようだ。

昭和七年生まれで現在85歳の青柳一男さんは、子供の頃を思い出しながら、当時の暮らしについて話してくれた。

現在85歳の青柳一男さん。小菅村で生まれ育ち、83歳まで現役の猟師として活躍していた青柳さんは、このあたりの山や自然を知り尽くしている。

「昔は水道なんてないから、山の水を水路で引っ張ってきたんだ。この辺りなら、山谷(沢の名前)から出てくる水を引いていたね。水路は集落の幾人かで工事をするわけ。溝を掘って、平べったい石を立てかけて水路を作ったんだ。この地区の水路は今も残っているよ。今は蓋をしちまったから、どこからどこへ流れているかはわかりづらいけど、うちの前にも水路が通ってるよ」

川の水は1mできれいになる

水路は集落の家々のそばを通り、1~2軒ごとに1カ所ずつ、水場が設けられた。水場とは、石や板を渡して水を汲んだり、水仕事をしやすいように整えた場所のことだ。

「それぞれの家では水路から水を汲んできて、台所の甕に貯めておくんだ。甕はバケツ7杯でいっぱいになる。甕の水がなくなりゃ、また汲みにいく。俺たちが子供の頃は、どの家にも子供が2~3人はいたからね。水汲みは子供の仕事だったよ」

当時、水路には蓋はなく、そのため水路のどこからでも自由に水を飲むことができたという。その一方で、蓋がないと困ったこともあったようで…。

「昔は牛が牛車で荷物を運んでいたんだよ。その牛が糞をするだろ。すると、今みたいに道が舗装されていないから、雨が降るとその糞が水路に流れ込むこともあったわけだよ。でも、みんな気にしねえ(笑)。昔は『水は三尺流れれば水神様が清めてくれる』って言ったからね」

そう言うと、青柳さんは恵比寿様のように福々しい笑顔で豪快に笑った。

一尺は約30cmだから、「1m流れればきれいになる」というわけ。なんともおおらかな話だ。と言っても、もちろん村の人は汚れた水を飲んでいたわけではない。

現在も、村内のあちこちにはかつて村人たちで整備し、生活用水として使っていた水路が残っている。かつては蓋がなく、どこからでも水の流れが見えたという。

「雨が降りゃ川の水が濁るから、水路の水も濁る。そうしたら水路の水は使えないから、甕に汲んでおいたやつだけを使うんだ」

また、集落によっては特定の時間や季節に水が少なくなることもあったという。

「川池地区の川久保って集落は役場のそばにあるから、水路ができるのが早かったんだ。宝生寺ってお寺さんの脇の城の沢って沢から水路を引いていたんだよ。けど、ここは冬になると水が少なくなって、おっとりこ(取り合い)になるんだ。朝のうちは、夜中かかって沢の水がいっぱい貯まってるからいいけどよ、夕方は大変だ。どの家でも風呂を立てたり、煮炊きするために水を汲むだろ。当時の風呂は外に小屋をこさえてよ、五右衛門風呂だから。それ以外の時に水が来なくなると、土管(水路)を彫ってみる。すると、ひび割れたりしているから、それを直したんだ」

水が豊富な村であっても、「いつでも好きなだけ」と言うわけにはいかなかった。だからこそ、人々は水をとても大事にしたようだ。

「水は大事だよ。だから、水元(水路の入り口)には水神様を立てた。山から拾ってきた、格好のいい石に水神様と彫って立てるんだよ。特にお供え物もお祭りもしなかったけど、みんな水神様には手を合わせたもんだよ」

もともと農家だった青柳家はワサビ栽培で生計を立ており、今は息子さんのお嫁さんがワサビの栽培や加工を引き継いでいるという。水の大切さや恵みを、身を以って知っているからだろう。青柳さんは「生きるにはやっぱり水さね」と繰り返した。

自然豊かな小菅村では、いたるところで湧き水や沢の水が流れている。川から遠い場所では、集落ごとに沢から水路を引いて生活用水を確保していた。
子供も手伝った、暮らしを守るプロジェクト

農業の他にも、林業や猟をして暮らしてきた青柳さん。山を歩きすぎて足を痛めてしまったそうだが、「見せたいものがある」と立ち上がり、源流探検部を案内してくれた。

連れて行ってくれたのは、川久保のさらに奥の林道だ。車を止めると、青柳さんは「あれだよ」と山の奥を指差した。見ると、木々の間に、青いトタンで覆われた建物がひっそりと建っていた。

「あれは昭和16年か17年頃かな。それとも、俺が中学に通っている頃だったかな。県で予算を出して、簡易水道を作ることになったんだ」

簡易水道とは、給水人口が5,000人以下の水道事業のこと。「小菅村郷土少誌」によると、村の人口は昭和五年が1,670人、昭和17年が1,687人、昭和22年が1,980人、ピーク時の昭和30年でも2,244人なので、小菅村の水道事業は簡易水道にあたる。

鮮明な記憶を元に、子供の頃や若かりし頃の小菅村での暮らしについて語ってくれた青柳さん。自ら案内役を務めてくれたその表情は生き生きとしていた。

青柳さんが工事を手伝ったのは旧川池配水池と呼ばれる施設で、今も山の中に残っていた。沢の水を貯めて、集落に届けるためのものらしい。非常に古いため、ほとんど資料が残っておらず、今となっては青柳さんの証言がこの建物を知る唯一の手がかりになっているようだ。

「山梨から山さんって親方が来てよ、ここの工事をしたんだ。ツルで山深く掘って、セメンで型枠を固めて、配水池を作ったわけよ。俺は子供だったけど、その工事に人足として行ってよ。足場作って、掘って、荷物を担いだんだ」

当時の日当は、120~130円。今で言えば、1万円くらいの価値があったと青柳さんは記憶している。

その日の仕事を終えると、山さんを中心に、職人や地元の学生さんは酒盛りをしたという。その時の盛り上がりを思い出したのだろう、青柳さんは「焼酎飲んで踊ってよぉ」と目尻を下げた。

足を痛めているという青柳さんには道で待っていて頂くことにして、源流探検部は林の中に入らせてもらうことにした。

川と言うには細く、沢にしては太い水の流れ。その流れをさかのぼるように林の中を歩くと、高く積まれたコンクリートの土台を青いトタン板でぐるりと囲んだ小屋が見えてきた。

山の奥にひっそりと佇む簡易水道の貯水池。トタンの壁で囲まれた建物の中には水槽が四つあり、鹿倉と呼ばれる沢の水でたっぷりと満たされていた。

小屋に入ると、土台に見えたコンクリートの部分は、水槽だったことに気づいた。外から引き込んだパイプから、沢の水が勢いよくほとばしる。鹿倉(シシグラ)と呼ばれる沢の水だという。

澄んだ沢の水をたっぷりとたたえた水槽は、「まだまだ現役ですよ!」と訴えているかのようだった。