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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
百名山と名水を守る人間力と地域力(荒川水系小森川)
900年前から百名山に住む一族
 埼玉県には海がない。しかし、約1700万年前、秩父盆地は海だったという。今回、源流探検部が訪ねたのは、そんな秩父盆地の西側にある小鹿野町だ。太古の海は今、首都圏を潤す荒川の源流の町となっているのだ。  梅雨明け間近の蒸し暑い空気は、高度が上がるにつれてひんやりと心地よく姿を変えてゆく。集落を過ぎ、「禁漁区」と書かれた黄色い看板を越えて間もなく、唐突に民家が現れた。山中豊彦さんのお宅だ。そのすぐ傍らには、両神山の登山道の一つ、白井差新道の出発地点がある。この登山道は山中さんが整備し、管理しているのだ。 「歳も歳だし、俺が自然を守っているのか、俺が守られているのかわかんないのよ」 出迎えてくれた山中さんは、囲炉裏端でそう笑った。なぜ、個人が百名山の登山道を整備・管理しているのか・・・。その理由を知るには、歴史を900年以上さかのぼる必要がある。
百名山の一つである両神山。山中豊彦さんは先祖から受け継いだ山を守り続けている
山中家が代々守ってきた両神山。ここを流れる小森川は赤平川を経て荒川と合流する
「うちの先祖は昔、茨城県猿島にいたんだけど、応援していた平将門が負けてここに逃げてきたんだ」  鎌倉時代の歴史書・吾妻鏡にも出てくる一族で、代々伝わる家系図からは、源頼朝と同じ源新羅三郎義光(源義光)に関係していることもわかっているという。 「うちのご先祖様が持っていた家系図の原本を差し出せと源頼朝に迫られてね。ご先祖様は関西方面へ逃げたんだが、戦乱が起こったんで、日本海側を回って群馬県の上野村まで戻ってきたんだ。ちょうどここ(両神山)の裏っ側だね。でも、まだ追われていると知って、中津川(現:秩父市)に逃げようとした。その途中で母ちゃんが産気づいて、長男が生まれたの。『山中(さんちゅう)にて長男生まれる。よって長男に山中を名乗らせる』という文章が残っているんだ」  山中家は、江戸時代に入ると名主として幕府からの通達を伝える役割をした。そのため、今もさまざまな書類が残っているそうだ。また、山中家は、中津川で取れた金の検査なども手がけていたという。 「江戸時代に入る頃、どこに誰が何人住んでいるか、区分け(人別)が行われたんだ。でも、両神山に住む4軒だけは忘れられていて、どの村にも入っていなかった。それで、1696年に白井差村となり、名主となった。そのうち白井差村の住民は1軒ずつ減っていって、我が家だけになったワケ」  両神山は修験道の聖地だったこともあり、当山派である両神神社と、本山派である御岳神社の奥宮がある。 「当時は神仏習合でしょ。護摩を焚く時なんかは、うちに『山の木を伐らせてくれ』って言ってきていたよ。ここは私有地で山伏も入ってこなかったから、石仏もないけどね」
30年以上、山岳救助をした山の番人
 両神山は秩父多摩甲斐国立公園に指定されており、3分の1を山中さん、残り3分の1を埼玉県生態系保護協会が所有している。 「山頂から薄川の谷のあたりまでは、埼玉県生態系保護協会が2015年に買い取るまで、小菅さんという実業家が持っていてくれたの。『両神山を守らにゃいかん』って。その小菅さんが1967年の埼玉国体の時に、『両神山は使わせない』と閉鎖を言い出したんだ。というのも、国立公園であるにもかかわらず、個人の山は自分で管理し、固定資産税も莫大な相続税も所有者が払うこととなっている。その土地を埼玉国体が何の相談もなく勝手に使うという扱い方に疑問を感じたからなんだ。けれども、周囲の説得もあり、国のことで騒がしてもいかんと思い、小菅さんに登山道を再度開けてもらって、国体をやったんだ。うちも後で同じようなことになって、登山道を止めることになったんだよ」  なぜ、登山道を止めることになったのか。国立公園に指定され、多くの人が両神山に入ることになったが、指定された場所は個人の山であった。指定されているため、自分の山なのに自由に木の伐採も出来ない状態が続いた。しかし、個人所有の山は固定資産税もかかり、相続すると相続税もかかる。一方で、所有する山の登山道を解放してもお金が入ってくることはない。むしろ、道やトイレの整備に手間もお金もかかる。そうした在り方に疑問を持った山中さんはいったん登山道を止めた後、自宅前から山頂に至る登山道を整備して「白井差新道」と名付け、日本で最初の有料予約制の登山道をつくった。  事前に予約して環境整備料(1,000円)を支払えば、誰でも利用できる。丁寧に作られた白井差新道は歩きやすい登山道として人気だ。ここで何かあれば、山中さんが救助に向かう。これまで人命救助でもらった感謝状は、県知事・消防・警察などから合わせて70枚にものぼる。自分の土地だけでなく埼玉県生態系保護協会が所有する土地も合わせて管理しているというから、まさに両神山の番人だ。  そんな山中さんが大切に守っている山を見せてもらった。家のすぐそばの道の両側には大人の腕でひと抱えほどのスギやヒノキが立ち並ぶ。 「150年生の木は、家を建て替える時のためにね。200〜250年の木もあるよ。山の植林の6割はスギだけど、沢沿いにはシオジやサワグルミ、上の方にはブナやミズナラがあるよ。最近は、少しずつケヤキを植えているんだ」  山の中は暗すぎず、明るすぎず、歩いていて気持ちがいい。山の木も、心なしか元気に見える。岩肌からは、湧き水が勢いよく流れ落ちている。ポツンと一軒だけ山の中にある山中家は、いまだに水道が来ておらず、湧き水をホースで引いて使っているそうだ。
山頂までの登山道には梯子や木造の橋が。すべて山中さんのお手製で維持管理も行う
白井差新道入口の注意書き。事前予約のため入山者を把握でき、救助に役立てられる
 崖下から、小森川が流れる音がする。小森川は赤平川へと合流し、それが荒川へと注ぎ込む。橋のたもとで、源流探検部の一人が「大きい魚がいる!」と川面を指差した。つられて覗き込むと、小森川を泳ぐ魚影が橋の上からでもくっきりと見えた。30cmはありそうだ。 「イワナだよ。ココには秩父イワナの原種が残っているんだ」  山中さんの土地を流れる小森川は禁漁区となっており、山中さんは魚の数まで把握しているらしい。守り続けてきた山への愛情は、登山道にも滲み出ている。段差には梯子が置かれ、沢には小さな木製の橋がかかる。どれも丁寧な作りだ。 「この白井差新道では、これまで大きな事故が起きていない。それが俺の自慢なんだ。もう歳だし、いつまで山を守っていけるかわからないけどね」  あまりにきれいに整備されているからつい忘れてしまうが、山中さんが一人で手入れをし、維持をしているのだ。それはきっと、都市部の人間が想像する以上に大変なはず。それでも飄々と「俺は平地より山の方が歩きやすいんだ」と笑う山中さんに、源流の中で生きてきた人の強さと誇りを感じた。
毘沙門水が名水百選に選ばれた理由
 小鹿野には、環境省の「平成の名水百選」に選ばれた湧き水がある。それが毘沙門水だ。町内の馬上(もうえ)地区の生活水として昔から使われてきたものだという。 「毘沙門水は、ご飯やお茶はもちろん、コーヒーにも合うんですよ」  馬上地区に住む守屋敏夫さんは、毘沙門水で淹れたコーヒーで源流探検部をもてなしてくれた。さっそくいただいてみると、なるほど、ミネラルやカルシウムが豊富な硬水が、コーヒーの風味を引き出していて美味しい。 「山間部に集落が点在する小鹿野町では、水道整備が難しく、昔は各集落が独自に水を引いていました。この馬上地区では元々ある水源から水を引いていたのですが、昭和34年 (1959年)に枯渇してしまったんです。別の水源に切り替えたものの、そこも枯渇してしまって。ちょうどその頃、東電の鉄塔建設が行われており、水が濁ったりしていました。そこで、東電の協力を得て、白石山(はくせきさん)の麓に湧く伏流水を引いてきたのです」と、守屋さん。  それが 昭和57年(1982年)のこと。当時の様子を、同じく馬上地区の酒井泰男さんが教えてくれた。 「昔の人は、山の知識があったので、新しい水源を見つけられたのでしょう。標高700m地点にタンクを設置し、そこからパイプで各家庭に水を送ることになりました。当時、馬上地区の40戸が1人ずつ人足を出し、2ヵ月かけてパイプを敷設しました。工事にあたったのは、私たちの親世代です。場所によっては畑の下を通すなど、かなりの重労働でした。当時はみんな若く、ほとんどが農家だったので、時間を融通できたんです」  白石山は毘沙門山とも呼ばれていたことから、湧き水は毘沙門水と名付けられた。不思議なことに、雨が降らなくてもこの水が枯れることはないそうだ。湧水地点に囲いを設けることで動物のフンなどが混じらないようにしている。 「馬上地区では水道組合を作り、輪番で役員を務めて毘沙門水の管理を行っています。1日1,000トンもの水量があるので、地区の各家庭で使っても、なお余水があります。そこで、平成7年(1995年)には、地区外の方々にも水汲み場を開放することにしました。平成の名水百選に選ばれたのは、水の美味しさだけでなく、こうした地域力を評価されたようです」(守屋さん)
毘沙門水について教えてくださった、馬上地区の酒井泰男さん(左)と守屋敏夫さん(右)
今も使われる毘沙門水。その余水を汲むことができる水汲み場は一般にも開放している
 一般に開放している水汲み場に、守屋さんと酒井さんが案内してくれた。平日にも関わらず、県内外のナンバープレートの車がひっきりなしにやってきては、水を汲んでいく。その対価は設定されていない。 「特に価格などは設定していませんが、水汲み場に協力金の箱を設置し、その収入も維持管理費用に充てています」(酒井さん)  昭和57年(1982年)当時は40戸だった水道組合の加入世帯は現在26戸。「65歳以上が75%と高齢化が進み、この地域は限界集落になりつつあります。今の形のままで管理できるのは、あと10年が限界でしょう。ただ、ここは水が豊富だからこそ、古くから人が住むことができた地域。できるだけ毘沙門水を守っていきたいですね」(守屋さん)  小鹿野の人々の山に対する思いは、使う言葉にも表れている。一般的に都市部に向かう方向を「上り」、都市部から出ていく方向を「下り」と呼ぶが、小鹿野では山の方向を「上(カミ)」、里の方向を「下(シモ)」と呼ぶという。  山があってこそ水が得られ、暮らしが成り立つ。それを知る人々の心の真ん中には、昔も今も山があった。豊かな森林を人が守る、そんな恩恵を後世に残すためには一人でも多くの理解が未来を切り拓くのだろう。
写真=田丸瑞穂 文=吉田渓