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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります。
東北の宿場町にブランド米が生まれた理由(阿武隈川水系白石川源流)
町役場がダムの上流にある源流の町
 西日本よりも東北の方が早く梅雨入りした今年の6月。源流探検部は、雨の東京から東北新幹線に乗った。たどり着いたのは白石蔵王駅だ。今回の目的地である宮城県七ヶ宿町は、ここから車で約25分。  七ヶ宿町に入って、まず目にしたのは仙台市など宮城県内の8市9町に水道水を供給する七ヶ宿ダムだ。 七ヶ宿町の西端にそびえる蔵王連峰から始まる白石川は七ヶ宿ダムを経て柴田町で阿武隈川と合流し、岩沼市で太平洋に注ぐ。  七ヶ宿町は、役場や商店、その集落がダムの上流にある。これまで多くの源流域を巡ってきたが、町の機能のほとんどがダムの上流にあるというケースは珍しい。  奥羽山脈の東南斜面にそっと寄り添う山間の町にあって、七ヶ宿町には不思議な開放感がある。 この町の歴史を「水と歴史の館」の髙橋正雄館長から教えてもらい、その理由がわかった気がした。 「七ヶ宿町の名前は、江戸時代にこの地域に開かれた『山中 七ヶ宿街道』(以下:七ヶ宿街道)からきています。陸奥国(青森県)や出羽国(秋田県と山形県)にあった13藩が参勤交代の際にこの七ヶ宿街道を通っていました。名前からも分かる通り、街道沿いには七つの宿場があったのです」(髙橋さん)
「水と歴史の館」の髙橋正雄館長。町役場を退職後、現職で町の歴史や文化を伝えている。
七ヶ宿町内を流れる横川。この町では、底が見えるほど澄んだ流れにすぐに出会える。
 しかし、なぜそれほど多くの藩主がこの七ヶ宿街道を通ったのだろうか。 「七ヶ宿街道は、東北の日本海側と太平洋側を結ぶ道だったんです。出羽国から江戸に向かうには、奥羽山脈を越えて奥州街道に入る必要がありますが、七ヶ宿街道のあたりは奥羽山脈の中でも標高が低くなだらかで、行き来しやすかったワケです。出羽三山の参拝者もココを通ったほか、現在の山形県高畠町が幕府直轄地だった時代には、七ヶ宿街道を通って御城米(幕府直轄の年貢米)が江戸に届けられました」(髙橋さん)  現在、奥州街道は国道4号線、羽州街道は13号線となっているが、自動車や鉄道が普及する前は、七ヶ宿街道が日本海側と太平洋を結ぶ交通の要だった。 「七ヶ宿町内に鏡清水という湧き水があるのをご存知ですか(?)。これは白石川の水源地なんです。奥羽山脈の峠(山形側)を上がって一息ついた頃、たどり着くのがこの鏡清水だったため、旅人はこの湧き水で喉を潤したそうですよ」(髙橋さん)
中学生が思い出させた県をまたぐ水の絆
 西は山形県、南は福島県と接する七ヶ宿町では、江戸時代からさまざまな人を受け入れていた。外に開かれていた水源地・七ヶ宿には、水にまつわるエピソードがある。実は、隣接する山形県上山市の一部の田んぼは、七ヶ宿町の横川(白石川の支流)から引いているのだという。 「分水の話が初めて出たのは江戸時代の寛政年間のこと。鉱山があった上山藩の中生居村(現:上山市)では、鉱毒の心配から充分な水を田んぼに引けず、困っていました。そこで奈良崎助左衛門という方は堰を自費で作り、仙台藩の関村(現:七ヶ宿町)を流れる横川から水を引こうとしたんです。しかし、当時は他藩の水を引くことは許されないことだったので、実現しませんでした」(髙橋さん)  その後、何度も上山藩に願い出ては却下され、奈良崎助左衛門は志半ばで亡くなる。しかし、彼の息子がその意思を継ぎ、明治14年(1881年)についに横川堰が完成した。山の中に掘ったトンネルを通って、横川の水が中生居村まで届けられたのだ。  それにしても、なぜ、七ヶ宿町の人々は水を分けることに同意したのだろうか。お米を育てる上で水は何より重要なもの。そのため、日本各地に水争いの話が多く残っているほどだ。 「七ヶ宿町は豪雪地帯です。山の水は冷たく、耕地も少なく、冷害で米が収穫できない年もありました。その一方、宿場町のため、旅人に出す米を確保しなければいけませんでした。そこで、『水を分ける代わりに、冷害で不作の年は米を分けて欲しい』と交換条件を出したのです。しかし、単に損得だけで許可をしたのではなく、自分たちも米作りで苦労をしたからこそ、助けてあげたいという気持ちがあったのではないでしょうか」(髙橋さん)
横川にかかる「やまびこ吊り橋」からの眺め。晴れていれば不忘山(ふぼうさん)が見える。
横川の源流域。このさらに上流にある横川堰から山を越えて、山形県上山市へ水が送られている。
 この話しには続きがある。 「平成22年(2010年)に七ヶ宿中学校の生徒が横川堰をテーマに創作劇を上演したんです。すると、上山市から、『こちらでも上演してほしい』と依頼があったのです。中学生の創作劇を見た地元の農家の方々が感激して、30kgものお米が贈られてきました。以来、毎年送られてくるお米は学校給食としていただいています」(髙橋さん)  争うのではなく、分け合う。いにしえの人々の思いは、今もこの源流の町で生き続けている。
カキ殻と炭で育てる環境に優しいお米
「西に一里進むと一尺(33cm)雪が増える」と言われる七ヶ宿町で、ブランド米「七ヶ宿源流米」を育てている人たちがいる。七ヶ宿町の中でも雪の多い湯原(ゆのはら)地区を中心に結成された七ヶ宿源流米ネットワークの人々だ。  彼らが育てたお米は「米・食味分析鑑定コンクール国際大会」で毎年のように数々の賞を受賞しており、さらに農業に貢献した団体に贈られるオリザ賞も受賞している。  源流と冠したブランド米とはいったいどんなものなのか。  七ヶ宿源流米ネットワーク代表を務める梅津賢一さんに話を聞くことにした。  梅津さんと待ち合わせたのは、移住者をサポートする「七ヶ宿くらし研究所」の「くらけんcafé」。古民家をリフォームしたカフェでコーヒーを飲みながら、梅津さんが言う。 「この辺りは豪雪地帯で、稲の穂が出る前に低温に見舞われるなど、苦労してきました。そんな中、新品種の試験栽培をきっかけに9名で始めたのが源流米ネットワークです。新品種は、この土地の豊かな水や澄んだ空気といったイメージから『やまのしずく』と名付けました。この『やまのしずく』や『ひとめぼれ』を七ヶ宿源流米として育てています」(梅津さん)  ただし、七ヶ宿源流米の定義は三つあるという。 「一つ目は、環境に配慮した『みやぎの認証米』と同等以上の栽培方法を行うこと。二つ目は、土壌改良剤の代わりに水田10haあたり100kgのカキ殻を撒くこと。三つ目は、用水路に炭を入れて水を浄化することなんです」(梅津さん)
七ヶ宿源流米ネットワーク代表の梅津賢一さん。30〜70代の仲間12人と活動している。
 梅津さんたちがこだわっているのは、七ヶ宿ダムの水源を守りながら、環境に配慮した農業を継続すること。  しかし、なぜ水田にカキ殻を撒くのだろうか。 「きっかけは、ネットワークの会長が『広島でカキ殻を土壌改良に使っている』という話しを聞いたこと。米作りでは、毎年田んぼに土壌改良剤を撒くのですが、その代わりにカキ殻の粉末と牛糞を撒いたら、どうかということになったのです。カキはきれいな川から水が海に注ぐことで育つもの。県内の松島で獲れたカキ殻と、この町で飼っている牛糞を使うことで、循環型社会ができればと考えたのです」(梅津さん)  さらに、浄水に使う炭は、この町を支えてきた存在でもある。 「七ヶ宿では昔から炭焼きが盛んで、私の祖父の代までは、冬に炭を焼いて生計を立てていました。炭には消臭・脱臭効果があると言われているので、これで水を浄化してみたのです。とはいえ、ここはダムより上流にある源流域ですから、田んぼに引いている沢の水はそのままでも飲めるほどきれいです。それをあえて炭で浄化することで、より安心できれいな水で育てたお米であることをアピールできればと思ったのです」(梅津さん)
イワナが棲む田んぼで育った源流米
 この土地と米を愛する梅津さんの田んぼを見せてもらった。 東京ドーム三つ分という広さの田んぼに張られた水が、周囲を取り囲む山々を鏡のように映し出す。そこに、青々とした苗が行儀よく並んでいる。  そう言えば、ここに来る前に「梅津さんの田んぼにはイワナが泳いでいる」という噂を聞いた。あぜ道を歩きながらその話をすると、梅津さんは笑って田んぼの脇の用水路を指差した。 「ここに網を入れて引き上げたら、イワナが入っていたんですよ。うちの田んぼは、沢の水をそのまま引いているから、紛れ込んだのでしょう。びっくりしたけど、それ以来、たまに入っているのを見かけますね」(梅津さん)  普通の田んぼでは、あり得ないことが起こるのは水のきれいな源流域だからこそ。田んぼのあちこちではカエルが鳴き、アメンボが水面をスイスイと進んでいく。米粒みたいなサイズのバッタもいる。 ちなみに、源流米ネットワークでは、水田の水質や生き物の豊富さを基に格付けをする水田環境調査を実施。30種類以上の生き物がいる水田などが認定される最高基準の「特A」地区に認定されているほか、七ヶ宿町自体も環境王国として認定されているそうだ。  あぜ道を通って田んぼの奥の森に入っていくと、この辺りの田んぼに水を送るための堰があった。森の中を通ってきた沢の水は、そのままでも充分きれいだが堰の中に入れた炭でさらに浄化され、そして田んぼへと送られていく。
沢の水は用水路で炭によって浄化され、それぞれの田んぼへと送られていく。
用水路にイワナが泳いでいることもしばしば。
「嬉しいのは、源流米でいろんな縁がつながっていくこと。七ヶ宿ダムの水を使っているビールメーカーの社員さん、また源流米を扱ってくれる東京のお米屋さん、こんな関わりのある人たちが田植えや収穫を体験しにきてくれるんです。これからも、七ヶ宿源流米を若い世代に伝えていきたいですね」(梅津さん)  ブランド米を生んだのは源流に生きる人々の自然を思う気持ちだ。 源流文化の多くは昔から伝わるものだが、それだけではない。自然とともに暮らす人々によって生まれた新たな源流文化は、間違いなく次世代に引き継がれていくことだろう。 文/吉田 渓  写真/田丸瑞穂