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未来を拓く源流新時代の幕開け ~全国源流の郷協議会~
全国各地の河川の最上流に位置する自治体が結集し、平成17年11月に「全国源流の郷協議会」が発足しました。 日本の源流域は、国土保全や環境保全の最前線に位置しており、河川の流域だけでなく、我が国にとっても非常に重要な地域となっています。 会員一同その責任を自覚し、源流域の環境などを保全に務めておりますが、源流の恵を共有する流域の皆さんと一緒に活動していくことが必要です。 当協議会では、源流地域の重要性を多くの方々に理解していただき、源流域が存続していけるよう源流基本法の制定などを提案し、その実現に取り組んでおります
出雲伝説の舞台を守る源流の自然(斐伊川源流)
スサノオノミコトが降り立った奥出雲の源流
 出雲大社に日本中の神様が集まる神在月。出雲空港に降り立った源流探検部は、斐伊川の源流域である奥出雲町に向かった。奥出雲町には、出雲神話の一つである「ヤマタノオロチ退治伝説」が残っている。どんな話か、少し振り返ってみよう。  高天原から追放され、出雲国に降り立ったスサノオノミコトは、斐伊川の鳥髪(現在の鳥上地区と言われている)へやってきた。そこでは毎年、頭と尾が八つずつある赤い目をした大蛇に若い娘が食べられており、今年は末娘のクシナダヒメが食べられる番という。その話を聞いた素戔嗚尊は、ヤマタノオロチ退治を申し出た。素戔嗚尊はヤマタノオロチを酒で酔わせ、退治した。その尾から取り出されたアメノムラクモノツルギは、アマテラスオオミカミに献上されたという。アメノムラクモノツルギは三種の神器の一つであるクサナギノツルギだとも言われている。  このヤマタノオロチがいた場所というのが、奥出雲町の船通山にある「鳥上の滝」の滝壺だと言われている。船通山は斐伊川の源流だ。斐伊川は、昔から幾度となく氾濫を起こし、暴れ川とも言われてきた。神話のヤマタノオロチは斐伊川、ヤマタノオロチの尾は斐伊川の源流と解釈されることもあるそうだ。  そんな斐伊川の源流域で川を守っている人がいると聞き、訪ねてみることにした。その人は、ヘアサロンを営む深田英治さんだ。島根県東部に伝わる安来節(ドジョウすくい)の踊りの大師範でもある。深田さんは、斐伊川の支流であるイザナミ川でゴギの人工孵化を行っていた方だ。  ゴギとは中国地方の源流域にだけ生息するイワナの一種で、その数の少なさから幻の魚と呼ばれ、お隣の広島県では天然記念物に指定されている。
イワナの一種であるコギ(他の地域ではゴギと呼ばれる)の人工孵化を手がけた深田英治さん。
幻の魚と言われるコギ。鼻先まで白い斑点がある。
「この辺りではコギって呼ぶの。ニッコウイワナと似ていると言われるけど、コギは背中から鼻先まで白い斑点があるのが特徴やけん。もともと斐伊川の上流にはコギがいたから、この辺りではよく食べてたんだよ。美味しいんだけど、数も少なくなったから、最近は食べないけどね」  人懐っこい笑顔でそう教えてくれた深田さん。人工孵化を始めたきっかけは、体長3〜4cmほどのコギの稚魚を知人からもらったこと。その数なんと、500匹! 「家の前に置いてあった、使っていない風呂桶で飼うことにしたんだがね。それが平成8(1996)年」  コギは3年ほどで体長35〜40cmにまですくすく育ったという。コギが育つ環境を守るため、深田さんは地域の人々と「コギを守る会」を結成。看板を設置したり、イザナミ川の周りを掃除して環境を整え、人工孵化に取り組んだ。 「採卵して放精させた卵を洗面器や水槽に入れて水を流しっぱなしにするんだけど、湧き水でないとダメだけんね。卵は8〜10度の水でないと孵化せんし、水に少しでも泥が混じってると死んじゃうわけですわ。うちでは地下水を汲み上げて使っているけど、コギの卵には湧き水でないとダメだけん。それで、平成11(1999)年に初めて人工孵化が成功しわけだがね」  ある程度の大きさに育った稚魚は地元の子供たちと一緒にイザナミ川に放流するなど、環境教育の側面も担っていた。しかし、ある理由から人工孵化を諦めざるを得なくなったという。 「山に竹が増えてしまったことや地殻変動などの影響からか、湧き水が出なくなったけん。湧き水がないと卵が死んでしまうから、人工孵化を辞めたわけだがね」  それでも深田さんのコギや川への愛情は衰えるどころか、ますます深まっているようだ。イザナミ川の上流に住む深田さんは、コギが棲みやすいよう、奥さんと二人で川の周りを掃除したり、草刈りをしている。
人工孵化したコギを放流したイザナミ川。地元の人と「コギを守る会」を作り、啓蒙活動も行った。
暗くなってから動き出すコギを観察するのが深田さんの楽しみ。
 深田さんが、イザナミ川へ連れていってくれた。神在月の川原は昼間なのにピリッと空気が引き締まっている。赤・黄・緑の葉を乗せた大小の岩の間を、澄んだ水が駆けてゆく。幻の魚の住処にふさわしい美しさだ。周囲の木の根元に「水源かん養保安林」と看板がある。 「コギは普段、堰(岩で段差ができているところ)や淵にいるわけだがね。今はちょうどペアリングの時期。ペアリングの時は川の中でも流れが穏やかなところにいるけんね」  そんなイザナミ川のすぐそばに、屋根と床だけの簡素なお社がある。イザナミノミコトを祀るお社だという。 「この地域に昔、伊邪那美命が降り立ったと言われているけんね。この山の奥にイザナミノミコトが一夜を過ごしたとか、亡くなったとか言われる洞窟があるわけ。そこは林道もないような場所で、しょっちゅうは行けないから、ここにお社を作って祀ったわけだがね」  実は最近、深田さんの義父の体調が悪くなり、毎日イザナミ様にお参りしたところ、持ち直したのだという。回復してからも、よそに出かけた時以外は毎日お参りしているそうだ。  そのさらに上流に住む深田さんの楽しみは、毎晩、奥さんと二人でイザナミ川のコギを観察すること。 「昼間はなかなか見られないけど、夜、懐中電灯で照らすと寄ってくるけんね。わしは安来の生まれで、ここは女房の実家なんだけど、『もうこの土地を出とうない』って思うがね。ここはせせらぎしか聞こえないから、よその土地に行くと眠れないけんね。泊まらずに帰ってきちゃうんですよ」  イザナミ川の水面を愛おしげに見ながら深田さんが言う。奥さんと出会ったことで川と出会い、そしてこの土地と結びついた。深田さんの満たされた笑顔には、川とともに生きる豊かさが溢れていた。
 自然豊かな奥出雲町を率いる勝田康則町長も、源流とともに育った人だ。 「私の子供の頃は、まだ鉄穴(かんな)流しが行われていました。その時期は川が茶色く濁ったのですが、それ以外の斐伊川は水がきれいですからね。夏はほとんど斐伊川で水遊びをして過ごしました。石を運んで水をせき止めてプールにしてみたり、ハエンゴを獲ったり」  ちなみにハエンゴとはカワムツやオイカワとも呼ばれる小魚のことだという。川と子供の関係は形を変えて受け継がれており、今では校外学習として小学生が支流で水棲生物を観察したり、アユの放流などを体験しているそうだ。 「斐伊川の源流であり、日野川水系との分水嶺でもある船通山は、ヤマタノオロチ退治の伝説が残る場所。山頂には天叢雲剣の出顕(しゅつけん)を記念する石碑があり、毎年7月28日には宣揚祭が行われ、素盞嗚尊(スサノオノミコト)に扮した舞い手が剣の舞を披露します。船通山はカタクリの群生地としても有名で登山客も多いんですよ。地元の鳥上地区の方を中心とした『船通山を守る会』では登山道の草刈りや整備などを行っているのですが、登山愛好家の方々も参加してくださっています」
斐伊川で遊んで育った奥出雲町の勝田康則町長。
奥出雲町は米作りに適した土地。現在は時代に合わせた循環型農業が行われている。
 人々に愛される船通山と、そこから流れ出る斐伊川。その水は田んぼを潤し、「東の魚沼、西の仁多米」と称されるほど美味しいお米を育ててきた。豊かな恵みをもたらす一方で、斐伊川は昔から暴れ川としても有名だった。また、昔から鉄穴流しで大量の土砂が流れた斐伊川は、川底の方が平地より高い天井川になっていたため、洪水が起こると被害も大きかったそうだ。 「昭和47(1972)年7月の豪雨が大きな被害をもたらしたことから、お隣の雲南市に洪水調整のための尾原ダムが建設されることになりました。それに伴い、旧仁多町(現:奥出雲町)の一部がダム湖に水没することになったのです。その地域の人々は先祖代々続いた田畑や家屋を手放さなければならなくなったのですが、これも斐伊川の源流域に住む者の責務だと受け入れたのです」  尾原ダム建設は、斐伊川放水路の整備や宍道湖とその周辺の整備とともに斐伊川水系治水事業3点セットと位置付けられ、2011年にダムが完成した。斐伊川流域の小学校では尾原ダム周辺での植樹のほか、島根県の森や歴史、食について学ぶ「みーもスクール」が年に3回行われている。  自然の恵みを受けて育った奥出雲町の人々は、水を育む森林への思いも強いのだろう。  「実は、奥出雲町の前々町長の岩田一郎氏は、平成31(2019)年から開始される森林環境税及び森林環境譲与税の発起人なのです。奥出雲町は総面積の8割が山林を占める町。源流の郷としてこの税金を活用し、自然をしっかり守っていきたいと思っています」
ヤマタノオロチが棲んでいた源流の滝へ
 船通山の鳥上の滝に行ってみることにした。登山道の入り口は、手入れの行き届いた人工林をしばらく歩いて行くと、急に視界が明るくなった。常緑の針葉樹林から、冬木立の林に入ったのだ。登山道に降り積もった赤や黄色の落ち葉は、前日に降った雨を吸ってふっくらとしている。冬木立の林が艶めいて見えるの は、そのせいかもしれない。  歩いているうちに斜面の勾配がきつくなり、道が岩畳になった。道に沿って流れる川も堰が増え、水はしぶきをあげて岩を滑り落ちて行く。立ち止まって全体を見ると、川は白い大蛇のようだ。 雨に濡れた岩は滑りやすく、少し慎重に歩いたこともあって、歩き始めて30分で鳥上の滝に到着した。
船通山の登山道。色づいた落ち葉を踏みしめながら、岩畳を進む。
船通山の登山道。色づいた落ち葉を踏みしめながら、岩畳を進む。
「ここのところ、滝の水量は少なめですね。伝説では、あの滝壺にヤマタノオロチがいたと言われています」  案内してくれた奥出雲町 農林土木課の藤原祥央さんがそう教えてくれた。見上げた鳥上の滝は、白亜紀の火山岩の岩壁に沿ってまっすぐに滑り降りている。その水の流れは細身ながら天と地をつなぐような力強さがある。滝の手前には、すでに枯れているが、白亜紀の火山岩を割って幹回り5.5mもあったという石割ケヤキの一部が残っていた。神話の舞台では、人間が現れるずっと前から、木と水と岩がぶつかり合い、気が遠くなるほどの年月を重ねてきたのだろう。  鳥上の滝に別れを告げ、登山道を下る。振り返ると曇り空が割れ、冬木立の間から日差しが光の帯のように差し込んでいた。天に続く梯子のようなその光に、この美しい源流が出雲神話の舞台であることを改めて感じたのだった。古代から守られてきた豊かな自然を次代へと受け継ぐべきと心に刻んだ思い出深い旅であった。